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【博物館】疲れた体に鞭を打って東京国立博物館へ行ってみた!(東京国立博物館)

 2025/11/14 博物館 この記事は約 35 分で読めます。 2 Views

 

 

上野の東京国立博物館へ行ってきました。

そういえば、上野は度々来ているけど、こっちサイドの博物館に入るの初めてだな。前日にポケ活で相模原市にいたから、この時点でだいぶ疲れていたけど、せっかく東京に来たので、疲れた体に鞭を打って!

 

 

上野なので、外国人観光客も結構いた。なんか熱心に読んでいるっぽいけど、日本の考古展示に興味があるのだろうか?隣の本館でやっている運慶展の方がビジュアル的に派手だし外国人受けする気がするけど?

 

 

考古展示室に入ると、まずは重要文化財の盛装女子の埴輪がお出迎え、女性の埴輪は半身像が大半らしいんだけど、この埴輪は珍しい全身像。

埴輪を見る際に注目すべき点は、その服装や装飾品。そこから当時の衣服や生活などを読み取ることができる。

この埴輪の場合は、模様のない筒袖の服の上に、波模様の袖のない服を重ね着していて、縦縞模様の「裳」と呼ばれるスカートをはいており、足が隠れている。弥生時代の女性はワンピースの貫頭衣を着ていたが、古墳時代に入ってからは、上下に分かれるツーピースの服装が主流になったらしい。

 

【埴輪 盛装女子】

 

髪型は、この時代の女性特有の島田髷をしていて、結った髷を縦櫛で留め、額には鉢巻きを締めている。両耳には大きな耳環と小さな玉を付け、首や手首には玉を連ねたアクセラリーをしている。左の腰には刀子と思わしき何かを提げている。この女性は華やかに着飾っているため、身分の高い人物であり、葬送の列や特別な儀式に参加している様子だと想像できます。

とまぁ、こんな感じで埴輪ひとつとっても、そこから読みとれる情報から想像が膨らんで面白い。

博物館の展示物って、何も考えないで見ると、ただ石ころが並べられているだけに思えるけど「それをどう使っていたのか?」など想像しながら見ると、なかなか興味深かったりする。というわけで、前置きが長くなったけど、考古展示を見ていこう!!

 

 

氷河期の日本列島に暮らした人々

 

 

日本列島に人々が住み始めたのは約4万年前、土器がつくられるようになるのが約1万3千年前で、その間は旧石器時代と呼ばれている。この時代は氷河期だったので、マンモスやナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳類が日本列島に暮らしており、まだ大陸と陸続きだった。

写真は、そんな時代に人々が狩りや採集につかっていた石器とそのつくり方。

つくり方の展示は、あまり見たことがなかったので「ほ~、こんな風につくっているのか」と勉強になった。

特に細石刃なんかは「こんな小さい石で何ができるんだろう?」と、ずっと思っていたんだけど、こんな感じで木にたくさん括りつけて使っていたのね。

 

【旧石器時代の想像図】

 

それにしても、こんな石っころで、マンモスやナウマンゾウやオオツノジカなんかを狩っていたなんて、命知らずにもほどがあるだろう。

ワイ、カナダでエルクと対峙したことあるけど、アイツやっべぇからな、マジでやっべぇからな!

エルクでさえド迫力なのに、それと同等かそれよりでかいオオツノジカやナウマンゾウやマンモス相手に石で戦うとかモンハンか!でも、生きるためにはそうしないと生きていけなかったんやろうね。

 

【カナダでエルクと対峙するワシ】

 

で、そんな石器の石材として使われていたのが、学校の歴史の授業でも教わる我らが黒曜石。北海道から九州地方にかけて広い地域で使われていた石。尚、黒曜石が少ない東北地方では珪質頁岩、近畿や瀬戸内地方ではサヌカイトが使われていたらしい。

 

【石材の代表格の黒曜石】

 

因みに、黒曜石はマグマが急速に冷えて固まってできた火山岩。天然ガラスとも呼ばれ、鋭い割れ口を持ち、加工しやすいのが特徴。北海道や長野県を中心に数多くの黒曜石の産地が確認されており、4万円ほど前から石器の材料として利用されていたのだそう。

 

 

自然環境の変化と定住生活

 

 

今から約1万3千年前、氷河期が終わると、海面の上昇によって日本列島ができあがりました。人々は自然環境の変化に合わせて、狩猟には弓矢を使うようになったり、土器を発明し定住するようになりました。

その後、約1万年にわたって続く新石器時代の幕開けで、世界では新石器時代に農耕や牧畜が始まりますが、日本列島では引き続き、採集、狩猟、漁撈による暮らしが続けられました。

温暖化で大型動物が減って、イノシシやシカなど足の速い中型動物の狩りが主流になったので、弓矢や落とし穴がよく使われるようになったんだとさ。本に書いてあった。

 

縄文土器の出現と利用

 

 

この時代の土器は、粘土を器の形にして縄目を使った模様をつけて素焼きをしたもので、縄文時代の縄文は、この土器の模様にちなんで名づけられたものなのだそう。

因みに、土器の発明は画期的で、煮炊きができる土器が発明されたことで、食物の消化がしやすくなり、殺菌効果も高まり、人々の食生活も豊かになっただけでなく、調理用の深鉢だけでなく、盛り付け用の浅鉢や鉢、貯蔵用の壺や注口土器など、土器の種類も増えていったらしい。

なるほど、言われてみれば、土器があれば、焼くだけでなく煮炊きができて、温かいスープなんかもつくれるようになるし、食料の保存などにも便利よね。画期的だわ。

 

縄文時代の暮らしの道具

 

 

縄文時代になると温暖になった自然環境に合わせて、マンモスやナウマンゾウといった大型動物はいなくなり、狩りの対象がイノシシやシカなどの小型中型動物になりました。弓矢が発明されて狩りの方法も変化。

また、海面上昇によって多くの入り江が生まれた結果、漁が活発となり、動物の骨や角でつくられた釣針、ヤス、銛頭などの骨角器が盛んにつくられるようになりました。

植生も針葉樹から広葉樹に変化したことで、木の実が採集できるようになり、採集したトチやドングリなどを砕いたりする石皿や叩き石、磨り潰すための磨石や凹石などが用いられるようになりました。

 

【縄文時代の想像図】

 

さっきの旧石器時代は、サバイバル感が満載だったけど、縄文時代の生活はなんかすごく豊かに暮らしていそう。一番の要因は自然環境の変化なんだろうけど、自然環境の変化に柔軟に合わせられる人間の対応力がすごいんだと思う。

 

縄文時代の装身具と祈りの道具

 

 

縄文時代の人々は、実用的な道具のほかに、装身具や祈りの道具をつくりました。装身具には、髪飾り、耳飾り、勾玉などの首飾り、腕輪、腰飾などがあります。これらの装身具は、性別や経験、立場の違いなどを表し、邪悪なものから身を守る役割を担いました。

石棒(ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲)とかあれよね。子孫繁栄的な。

 

縄文時代の祈りの道具:土偶

 

 

土偶は、縄文時代を代表する祈りの道具で、縄文時代の草創期(前1万1千年~前7千年)からつくられています。当初は上半身の実を表現した簡素なものでしたが、前期(前4千~前3千年)には頭や手足を加えた全身を板状に表すようになり、中期(前3千年~前2千年)になると立像になりました。後期(前2千年~前千年)から晩期(前千年~前400年)には、北日本、東日本で盛んにつくられました。

 

 

土偶には、つくられるようになった当初から乳房の表現があることから、女性を表したものと考えられています。土偶の膨らんだお腹は妊娠した姿を表すと考えられ、安産や子孫繁栄、そして豊穣を祈る道具であると考えられています。

土偶はかわいい。いろいろな遺物がある中で一番好きな遺物。

祭祀で使われていたらしいんだけど、土偶って完形で出てくることは少なくて、大体どこかが壊れていることが多いらしい。なんかまじない的なもので壊すのか分からないけど、飾って祀るのではなく「祭祀の際に壊すまでがデフォの仕様だったのではないか」と言われている。

 

 

大陸との交流と稲作の始まり

 

 

約2400年前、中国や朝鮮半島から水田稲作が伝えられ、九州や四国地方、そして本州に広まりました。人々は灌漑設備のある水田の側にムラをつくって暮らすようになりました。

その一方で、稲作が定着しなかった北海道では続縄文文化、南西諸島では貝塚時代後期文化と呼ばれる、独自の文化が形成されていきました。

 

【弥生時代の土器】

 

この時代の土器は弥生土器と呼ばれています。弥生土器は縄文土器と同じ素焼きの土器ですが、焼き方が異なり、色は明るく、薄くて硬いという特徴があります。生業の変化によって、素焼き用の甕、貯蔵用の壺、盛り付け用の高坏を基本とした用途別の器を生み出しました。

 

【弥生時代の土器】

 

弥生時代前期(前4~前3世紀ごろ)には共通した特徴を持つ弥生土器(遠賀川式土器)が西日本一帯でつくられました。東日本や北日本でもその影響を受けた土器が出土しており、文化の広がりがあったことが分かります。また、弥生時代中期(前2~前1世紀ごろ)になると回転台を使って土器をつくるなど、新しい技術も生まれました。

縄文土器が派手なのが多いので、弥生土器ってちょっと地味よね。

この辺の装飾が多い縄文土器から弥生土器への変化は実用面を重視されるようになったからだろうか?縄文時代の土器はなんかスピリチュアルな感じがするし、少し器に対する考え方の変化があったのかもしれない。

 

弥生時代のまつりの道具

 

 

弥生時代になると、朝鮮半島から北部九州へ青銅器や鉄器が伝えられ、弥生時代前期末から中期初頭にはその生産が始まりました。ほどなく瀬戸内地方をへて近畿地方にも広がっています。

 

【青銅品】

 

弥生時代前期末に北部九州に出現した銅矛・銅剣・銅戈の青銅製の武器は、朝鮮半島から伝来した当初は、鋭利で厚い刃部をもつ実用品でした。まもなく日本でつくられるようになり、やがて大型で薄く扁平な祭祀の道具へと変化していきます。

銅鐸は近畿地方を中心に発見されています。その起源は朝鮮半島の小銅鐸にたどることができ、出現した当初から小銅鐸よりも大きく、表面を文様で飾るなど独自の特徴を持っていました。

 

【銅鐸】

 

20cm前後の「かね」として誕生した銅鐸は、徐々に大型化し、最終的には音を奏でることのない、きわめて装飾的なものへと変化していきます。これらの祭器は豊作や集落の繁栄を祈るために使われたと考えられています。

 

【生活の風景が描かれた銅鐸】

 

銅鏡や銅鐸って、今見ると錆びついているので大したことないけど、当時はピカピカしていてめちゃキレイだったんだろうな。何より自分の姿が映せるなんて、昔の人によっては画期的な道具で、不思議な存在だったんだと思う。

 

弥生時代の暮らしの道具

 

 

弥生時代になると、中国や朝鮮半島から水田稲作とともに大陸系磨製石器や金属器が伝えられます。大陸系磨製石器には稲の穂を刈り取るための石包丁、木を伐るための大型蛤刃石斧、加工するための柱状片刃石斧や扁平片刃石斧、武器となる磨製石鏃などがあります。その他にも木製農耕具をつくるために磨製石斧が用いられました。これらの道具はのちに鉄でつくられるようになります。

また、蛸壺などのように弥生時代に国内で独自に生まれた道具もあります。このような大陸系の石器や金属器を用いた生活活動は、人びとの生活や社会を大きく変化させました。

 

【弥生時代の想像図】

 

弥生時代と言えば稲作。石包丁なんかは学校でも教わるし有名な道具だけど、よく考えたら、田んぼに入る際の下駄なんかもあるわな。

あと集落の周りを環濠で囲って集落を守るような形になったのも、確かこの頃からだった気がする。稲作と共に人々は争うようになったらしいので。

 

弥生時代の装身具とまつりの道具

 

 

縄文時代には、粘土や石、木や骨、角や貝など、さまざまな素材で装身具や祈りの道具がつくられていましたが、弥生時代になると新たに青銅製の腕輪である銅釧、ガラス製の勾玉や管玉などの首飾りが登場します。

ガラス製装身具の製作技術は、金属の鋳造技術をもとに発達したものです。一方、金属製の武器を模倣した磨製石剣や磨製石戈などもつくられました。これらの石器は、副葬品やまつりの道具として使われたと考えられています。また動物の骨でつくられた占い用の卜骨や楽器もあります。

因みに、卜骨なんだけど、弥生時代にはまだ牛馬は日本にはいなかったので、当時の卜骨は鹿猪などの骨が使われていたのだそう。だから逆に卜骨が鹿猪ではなく、牛馬の骨だったら、それは古墳時代以降のモノということになるのだそう。

 

続縄文文化

 

 

寒冷な気候のために水田稲作が定着しなかった北海道では、本州、四国、九州が弥生時代や古墳時代に入ったのちも、狩猟、漁撈、採集を中心とする暮らしが続いていました。これを続縄文時代と呼んでいます。

当時の遺跡の多くは沿岸部や河川の流域に集中し、海獣の骨や牙なども多く出土することから、縄文時代よりも狩猟や漁撈に比重がおかれていたと考えられています。ソバなどの雑穀の発見例もありますが、食料に占める農産物の割合は低かったといわれています。

続縄文時代には両刃や片刃の磨製石斧のほかに、海獣などの狩猟や解体に用いた石銛や石製ナイフなど、多種多様な石器が用いられていました。また、続縄文文化に特徴的な石器として、魚形石器があります。これは、疑似餌として使われていたと考えられています。

 

【続縄文文化の遺物】

 

土器は、縄文時代に引き続き、豊かな装飾を持つものがつくられました。また、佐渡島産の碧玉を加工した管玉や南海産の貝製品、そして鉄器などが出土することから、本州の弥生文化やサハリンを経由した大陸の文かとの交流も行われていたと考えられています。

北方ならではって感じ、狩猟生活の方が米作りよりも現実的な世界だったんだろうね。それにしても、こんな石っころを加工した道具なんかで、本当に獲物を捕獲できたんだろうか?石で大きな動物に立ち向かうなんて、何度考えても信じられない。

 

 

政治的社会の成熟

 

 

弥生時代の終わりごろ(3世紀前半)には、関東、東北地方から九州地方の各地に、地域ごとに独自の形をもつ大規模な墳丘墓が出現しました。ムラからクニが生まれ、更にそれを統合する勢力が生まれてきたことが分かります。239年~240年には、邪馬台国に女王、卑弥呼が中国の魏に遣いを送ったことが歴史書「魏志倭人伝」に記されています。

やがて3世紀後半、奈良盆地を中心とした畿内地方にそれまでの墳丘墓とはまったく異なる規模と構造をもつ前方後円墳が登場し、古墳には鏡や装身具など、被葬者の権威を表わす品物が副葬されました。これは、政治的社会が成熟して、より強力な力を持つヤマト(倭)王権が生まれたことを示します。以後、古墳が盛んにつくられた7世紀までを古墳時代と呼びます。

 

【古墳時代の土器】

 

この時期の土器は土師器と呼ばれ、弥生時代と比べて文様などの地域性がみられないことが特徴で、全国的に形が共通するものもつくられました。

言われてみれば、土器の形って、時代が進むにつれて派手さや文様はなくなって、機能重視になっているよね。全国共通でなんとなく基準がまとまっていく感じが面白い。

 

 

ヤマト王権の成立

 

 

4世紀になると、中国製の鏡を真似たものや、日本列島独自の文様を表現したものなどの精巧な大型鏡がつくられました。これは、倭人にとって鏡に特別な意味があったことを物語っている。

また、弥生時代に珍重された南海産の貝の腕輪を写した碧玉製の鍬形石をはじめ、さまざまな品物を写した青銅、石製品などもつくられ、ヤマト王権は政治的、祭祀的な権威を表すための宝器を自ら生み出すようになります。このうち、碧玉製品などは地方豪族の協力を得て生産されたことがわかっています。

鍬形石などの宝器や竪穴式石室を伴う古墳は、畿内地方を中心に、東海、中部地方以西に分布します。各地の豪族(有力者)がヤマト王権と政治的な関係を結んだ証として、自己の威信を表現するためにこれらの宝器を共有したと考えられます。

中国では西晋が滅び、北方民族の諸王朝が衰退する五胡十六国時代(311年~439年)に入り、朝鮮半島では313年に北部の高句麗が楽浪郡を、314年に帯方郡を併合し、南部の百済、新羅も周辺地域の統合を始めていました。ヤマト王権の成立と拡大も、このような東アジアの動静に深くかかわっていたとみられます。

 

紀年銘鏡と伝世鏡

 

 

中国の元号をもつ紀年鏡(紀年銘鏡)は、推定が難しい遺物の製作年代と出土遺構の上限年代を確定する資料として、大正時代(1912年~1926年)から研究が深められました。青龍3年(235年)から赤烏7年(244年)の10年間の中国元号をもつ古墳出土の鏡は、現在12個あります。

戦後になって、紀年鏡の制作年代と出土古墳の推定年代に約100年の差があることが注目され、日本列島に流入してから埋納されるまでの時間差を考慮した「伝世鏡論」が提唱され議論となりました。紀年鏡と伝世鏡は日本考古学における年代論の基準資料であるとともに、古墳文化とヤマト王権の成立に関わる古代史、考古学の第一級資料です。

それにしても、鏡は厨二心をくすぐる感じの漢字の羅列が多いね。「三角縁神獣鏡」やら「画文帯同向式神獣鏡」やら、技の名前みたいで、名前を聞くだけでもワクワクする。

発掘されたものは古いから錆てるけど、当時のピカピカのままだったら、そりゃすごく良いものに見えただろうね。きっと特別感が半端なかっただろう。

 

さまざまな宝器

三角縁神獣鏡を代表とする王権のシンボルとなった中国鏡や国産鏡などに加えて、4世紀には新たにさまざまな形の石製宝器が生産されました。

弥生時代以来の伝統的な石材加工技術を背景として、南海産貝輪がモデルの鍬形石、車輪石、石釧(碧玉製椀飾類)、祭祀用土器、容器型や武器型などの多様な碧玉製宝器が生産されました。

製作地は北陸、山陰地方や中部、東海地方などに広がり、ヤマト王権が地方豪族の協力を得て生産したとみられています。4世紀末頃からは土器や、農工具、機織具、下駄などを象どった滑石製品も現れました。

 

玉生産の展開

 

 

古墳時代の玉類には、さまざまな形状と材質があります。勾玉、管玉をはじめ、丸玉、小玉、棗玉、切子玉などがあり、特殊な大型品もあります。時期ごとにも複雑な変遷があり、身につける人物の性格や祭祀などの用途によって、さまざまな組み合わせがありました。

 

【祭祀に使われた玉】

 

最も一般的な石製玉類は、縄文時代以来の伝統的な技術を使い、硬玉や碧玉、水晶、瑪瑙、滑石などを材料としてつくられました。当初は山陰、北陸地方が生産の中心でしたが、やがて近畿地方でも大量につくられるようになりました。また、大陸伝来のガラスや金属を用いた玉類もつくられました。

石製品もよく見ると結構きれいよね。少ない道具でちゃんと気合を入れてつくられていたのが分かる。現代の金額に換算するとどれくらいの価値があったものなんだろう?

っていうか、勾玉はただの丸や三角とかなじゃなくて、なんであの形になったんだろう?今でも幅広く使われるデザインなのがすごい。

 

 

巨大古墳の時代

 

 

4世紀末頃には、大阪平野と奈良盆地を中心に、各地により巨大な前方後円墳が登場しました。墳丘には家形埴輪、器財埴輪を中心とした埴輪がたてられ、埋葬儀礼を通じて権力の強大さが示されました。一方で、鉄製の武器武具が納められた中小古墳も増加しました。これは、地方豪族とヤマト政権との結びつきが、より軍事的なものに変化するとともに中小の豪族にまで拡大したことを示しています。

また、鉄鋌と呼ばれる鉄の素材の大量の埋納例などから、鉄器の生産が飛躍的に増大したことがうかがわれます。

 

【鉄鋌と鉄製品】

 

朝鮮半島では4世紀中ごろに南部の鉄資源を背景に百済、新羅と伽耶の王権が成長し、鉄器や貴金属製品の生産が増大しました。中国では南部に宋が興り、北部は北魏が統一して、南北朝時代(420年~589年)が始まりました。

 

【倭の五王(讃・珍・済・興・武)】

 

中国の文献には「倭の五王」がたびたび南朝に朝貢し(421年以降)、中国の皇帝に日本列島と朝鮮半島における軍事的称号を認めるように要求したことが記されています。

朝鮮半島伝来の須恵器の生産開始や、鉄製の武器や武具の大量生産は中国を中心とした国際秩序にヤマト政権が参入したことを示すと考えられます。

 

須恵器の展開

 

 

古墳時代の土器には、弥生時代の伝統を引き継いだ、野焼きで赤褐色の土師器とともに、新たな技術でつくられた須恵器があります。

須恵器の品種は、貯蔵用の甕、壺、提瓶、供膳用の杯、高杯、𤭯、脚付壺などのほか、装飾須恵器などの特殊なものもつくられました。いずれも平安時代の土器の名にちなんだ名称です。

 

【窖窯の想像図】

 

須恵器は斜面に設けた窖窯で、1000℃以上の高火度で焼かれ、窯を密閉することによって硬く青灰色に焼き上げられました。その技術は中国の灰陶に由来し、朝鮮半島では三国時代に陶質土器として発達しました。

 

【須恵器】

 

4世紀末には、朝鮮半島の交流によって陶質土器がもたらされ、まもなく日本列島でも須恵器がつくられるようになりました。とくに大阪府の陶邑窯跡群では平安時代まで数多くの窯が営まれました。5世紀以降には、日本列島の各地に須恵器の窯が設けられ、古墳の副葬品として盛んに用いられました。

 

【須恵器】

 

古墳がつくられなくなっても、須恵器は奈良時代、平安時代の役所や寺院で用いられます。須恵器の技術をもとにして灰釉陶器がつくられるなど、須恵器の技術は中世陶器へと受け継がれました。

こうやって見てみると、須恵器って意外にバリエーションに富んでいて、今見ても割と立派なモノが多い気がする。玄関に飾ってあっても全然いける品々だと思う。ちゃんと丹精込めて作っていたんだね。

 

新沢千塚126号墳

 

 

新沢千塚126号墳は奈良盆地南部に位置する新沢千塚古墳群(約600基)の一つで、5世紀に造営された長方形墳(長辺約22m)です。副葬品は、多彩なガラス、金、銀、金銅、青銅製品や石製玉類、武器など国際性豊かなもので構成されます。

金・銀製の冠飾金具や耳飾り、腕輪、指輪、歩揺、ガラス椀、皿や、トンボ玉、金箔入りガラス玉などは、朝鮮半島の新羅王陵の出土品と同様の高い水準のものです。

 

【新沢千塚126号墳の出土品】

 

精細な龍文がほどこされた金製方形版は、中国遼寧地方から朝鮮半島南部にかけて盛んに作られた典型的な金属製装身具です。ガラス製品は中央アジアから中国に広く分布している西アジア起源のものです。

また、現代のアイロンにあたる火熨斗は絹製品の存在をうかがわせ、遺骸の周りで見つかった糸孔をもつ多数の金製歩揺は、被葬者の大陸風の衣服に縫い付けられていたものとみられます。一方、鏡屋石製玉類、武器は形状や材質から国産品と考えられます。

 

【新沢千塚126号墳の出土品】

 

これらの出土品は、朝鮮半島からの最新の文化が伝播してきた様子を伝えるだけでなく。当時の日本列島の人々の大陸への憧憬を物語る重要な資料です。

古墳時代のお宝もバカにできないね。もっと石ばかりだと思っていたけど、金・銀・青銅・ガラスなど、今の時代でもお宝になりえるものが使われていたんだ。

物によっては、今の宝飾品と変わりないくらいな立派なものまである。盗掘されるのもうなづけるわ。

 

江田船山古墳

 

 

江田船山古墳は有明海に注ぐ熊本県菊池川流域に存在する、5世紀後半から6世紀初頭の前方後円墳(全長約77m)です。教科書でも必ず取り上げれている銀象嵌銘のある太刀をはじめ、金、銀、金銅製の装身具、大陸から輸入された舶載鏡を中心とした銅鏡、馬具や武器などの多数の出土品は、日本を代表する古墳出土遺物として、昭和40年(1965年)5月に一括して国宝に指定されました。

 

【江田船山古墳の出土品】

 

金・銀製装身具は朝鮮半島とほぼ同一の高い水準のもので、そのうち金銅製冠や冠帽は、朝鮮半島における官位制にかかわるものと考えられます。とくに、金銅製の冠や沓は6世紀後半まで日本列島で盛んにつくられた製品の祖型となるもので、6世紀の金属製装身具を着用する風習の先駆けといえます。

 

【馬形埴輪に乗る古墳人】

 

また馬具は、朝鮮半島から日本列島に伝わった乗馬の技術がいち早く習得されていたことを示します。一方、近畿地方で生産された典型的な日本列島独自の甲冑は、ヤマト王建との強い結びつきを物語ります。これらの出土品は、百済をはじめとした朝鮮半島の王権とも交流した地方豪族(有力者)の活動と先進性を多角的に伝えています。

こういう金ピカの靴について思うんだけど、実際に履いたりはしないよね。きっと。

ただの置物だと思うんだけどどうなんだろう?靴のサイズとか合わないと歩きにくいだろうし、重いだろうし、靴擦れなんかもしそうだし。写真は複製品だけど、なんかサイズが大きい気がする。

 

古代東アジア銘文刀剣の世界

 

 

75文字の長大な銘文をもつ大刀で、5世紀の政治、社会や世界観を伝える日本古代史上の第一級の文字資料です。

古代東アジアの有銘刀剣には、中国製と朝鮮半島製、日本列島製があります。中国、後漢時代(25年~220年)以降の銅鏡や鉄製刀剣の銘文は、基本的に紀年および吉祥句(縁起のよい字句)、常套句を中心に構成されます。

これに対し、5~7世紀に日本列島で製作された有銘刀剣は、人命に漢字の音をあてて表記していることや、制作の経緯が内容に含まれるなどの独自性が認められます。また、「治天下」から始まる銘文は、中国の影響を受けた世界観を示すものとして注目されます。

 

【銘文刀剣】

 

加えて、銘文を記す対象が大陸では石碑のような大型のいわゆる記念物であることが多いのに対して、日本列島では身につけて持ち運ぶことができる鉄製刀剣であることも大きな特徴です。

日本列島で鉄製刀剣が弥生時代以降も重視され、東アジアの中で特異なまでに発達することと、古墳時代の有銘刀剣の盛行は深く関係すると考えられます。

刻まれている魚と鳥の模様がかっこいい。なんか古い伝説の剣って感じがするわ。というか、実際に古いんだけど。

映画とかだとこの刻印部分がオレンジ色とかに光って、フォースみたいな特別な力が宿ったりするんだよね。昔の人もそういう発想だったのだろうか?

 

 

地方豪族の台頭

 

 

5世紀末頃には、朝鮮半島伝来の武器・武具、金属製装身具の国産化が始まりました。金銀を多用する朝鮮半島に対し、日本列島では金銅板をおもに用いるなどの特色があり、6世紀中頃からは独自の装飾大刀なども発達しました。ヤマト王権は、権威の証として、これらを各地の豪族(有力者)と共有することで相互の結びつきを示したと考えられます。

また、追葬することができる横穴式石室を備えた古墳が、九州地方から東北地方まで急速に広がりました。小規模な古墳が密集する群集墳が増え、古墳を造営できる階層が拡大したことを示しています。さらに、須恵器などを用いた新しい埋葬儀礼が整えられ、墳丘上には新たに人物や動物を象った埴輪が登場します。

 

【古墳から出土した馬具】

 

朝鮮半島では、鉄資源や土器制作技術などで倭と関係が深かった伽耶諸国を新羅が圧迫し始めます。ヤマト王権は仏教などの新しい文化を受け入れて百済との政治的関係を深めましたが、伽耶が562年に滅亡し、ヤマト王権と朝鮮半島との交流は停滞します。金属器にみる倭風化はこのような国際関係を背景に進展したと考えられます。

国の成り立ちでいうと、日本って天皇を中心とした国づくりがずっと続いているから、世界的に見ても、すごい国だったりするんよね。

もちろん、天皇の影響力が弱い時期もあるけど、他国みたいに滅んだりしていないから、歴史が長い国家だったりする。

 

埴輪の展開

 

 

埴輪は古墳の上や周囲にたてられた素焼きのやきものです。弥生時代末頃(3世紀ごろ)に墳丘墓で用いられた特殊器台形土器などが変化して、3世紀後半の前方後円墳の成立と前後して円筒埴輪や壺形埴輪が誕生しました。

 

【家形埴輪】

 

やがて家や蓋、甲冑、盾、靫、鶏、船などを表わす形象埴輪が加わります。なかでも4世紀中頃に最も早く出現した家形埴輪は、つねに形象埴輪の中心的役割を担っていたと考えられます。4世紀末頃には前方後円墳のくびれた部分に壇(造出部)を設け、そこに並べられることもありました。

 

【人形埴輪や馬形埴輪】

 

5世紀中頃からは、新たに巫女、馬などに続いて、武人や猪、犬などの人物・動物形埴輪が登場し、古墳の周囲などに配列され、物語性を持つ構成が成立しました。これは王権を象徴する儀礼などを背景に設置されていたと考えられます。

 

【船形埴輪】

 

このように、埴輪は円筒埴輪を基本にして、さまざまなかたちの形象埴輪が、時代とともに次つぎに加わったことが特色であり、葬送儀礼において重要な役割を果たしたと考えられています。

古墳時代って、その名の通り古墳づくりがされていた時代だけど、古墳に並べる埴輪や副葬品などなど、古墳だけでなく、古墳周りの品々にもコストがかかるから、多くの人の人生の大半が古墳づくりに費やされていたんじゃないかな?って思う。

田んぼや畑仕事、狩猟なんかもあっただろうけど、その合間はずっと古墳周りのお仕事みたいな。

そうじゃないと、大量の埴輪はつくれないだろうし、そもそも、こんなに多くの古墳もつくれないだろうし、「古墳人の仕事=古墳づくり(古墳周りの細々したものも含む)」みたいな感じで、マンパワーは全て古墳に捧げられていたんじゃないか?

 

古墳時代の祭祀

奈良県桜井市の三輪山は、日本古代史上重要な信仰の山であり、大神神社の御神体として知られています。三輪山の西麓からは多数の祭祀具が発見されており、ヤマト王権にかかわる祭祀が執り行われていました。二十数か所からなる三輪山の祭祀遺跡のうち最も著名なものが山ノ神遺跡です。

巨石を中心として周辺から、祭祀に使用した小型鏡のほか、滑石製の玉類、多種多様な土杓で汲んだ清水を加えて坩(壺)で醸す、古代の酒造の様子を再現しています。

 

 

終末期の古墳

 

 

6世紀末頃に前方後円墳が姿を消し、有力者は大型方墳や円墳を好むようになり、7世紀中頃には新たな大王墓として八角形墳が現れます。また、畿内の飛鳥地域と河内地域に横口式石槨墳が成立します。横穴式石室と比べて奥室が著しく小型で、しだいに構造が退化することを特徴とし、伝統的な葬送儀礼が大きく変化したことを示しています。

 

【石室に使われていた石】

 

これらは終末期古墳と呼ばれ、墳丘を土でつき固める版築工法や切石積、漆塗棺などの技術は、古代東アジアの最先端技術を応用したものです。最終末段階には、高松塚古墳やキトラ古墳のように古代東アジアの思想を反映した壁画をもつ古墳も現れました。

 

【水瓶】

 

一方、6世紀中頃に伝来した仏教は豪族を中心に広まり、飛鳥寺(法興寺)、法隆寺などの寺院が営まれました。中国では、581年に隋、618年に唐の統一国家が成立し、遣隋使や遣唐使によって大陸の先進的な文化がもたらされました。

朝鮮半島では、660年に百済が滅亡、白村江の戦い(663年)では援軍を送った倭と百済が唐・新羅の連合軍に敗れ、668年には高句麗も滅亡するなど、緊張した国際関係のなかで国家の建設が進められました。

古墳時代も末期になると、仏教が入り始めて、古墳の中にも仏教関連のものが副葬品として入れられることがあったらしい。

実際、上の写真の水瓶なんかは、僧尼の日用品で仏前に供える浄水を入れる供養具なので、法要にに使われていたものなので、古墳中心の時代から仏教へと変化が起こり始めたというのが分かる。

 

 

律令国家の幕開け

 

 

7世紀以降、遣隋使、遣唐使として中国へ赴いた留学生や留学僧たちが、最新の制度や思想、宗教、技術、文物などをもたらしました。これらは政治や文化の革新に大きく寄与しました。

大宝元年(701年)、唐の法律にならった大宝律令が制定され、天皇を頂点とする律令国家が成立し、和銅3年(710年)には奈良盆地の北側に平城京がつくられました。以後、平安京に都が遷されるまでの80年余りを奈良時代と呼びます。

奈良時代は、都や国ごとに置かれた国府などの造営、官営寺院の県立、幹道の整備など、国家的な大事業が次つぎと進められました。

 

【骨臓器】

 

一方、6世紀に伝来して以降、仏教は社会にさまざまな影響を与えました。その一つが天皇や有力貴族を中心に広まった火葬です。焼いた骨を収めた骨臓器、副葬品、故人の業績や没年が刻まれた墓誌などが出土しています。

 

【軒丸瓦と軒平瓦】

 

また、6世紀の終わりには瓦づくりが伝来しました。当初、瓦はおもに辞意の屋根に葺かれましたが、飛鳥時代の藤原京(694年~710年)の造営以降、宮廷や役所などを用いられるようになりました。

天平13年(741年)、聖武天皇によって国分寺と国分尼寺の建立の詔が出されると、都を真似しながらも各地で瓦づくりが本格化しました。九州地方から東北地方まで、さまざまな地域で個性ある瓦がつくられました。

個人的に、古墳時代辺りまでは考古って感じだけど、このくらいの時代から、考古学というよりは歴史って感じがしてくるわ。なんでだろうね?文字が普及し始めたからか、土器が中心だった遺物が瓦とかに代わってきたからだろうか?

 

古代の貨幣

 

 

日本で最初につくられた貨幣は富本銭や無文銀銭と考えられています。これらは貨幣として使われたとする説と、まじない用につくられたとする説があります。

今のところは本格的な流通用の貨幣は、和銅元年(708年)に作られた和同開珎と考えられています。初期の貨幣には銅銭のほかに、ごくわずかに金銭や銀銭がつくられることもあったようだが、律令国家の衰退とともに価値が下がり、中国から輸入された銅銭が使われるようになると、ついにはつくられなくなりました。

最近は古銭もガチャガチャで売ってたりするよね。あれって本物なのだろうか?本物なら買ってみたい気もするけど、どうせなら、現在発見されている全ての古銭をコンプしたい。

 

古代の墓誌

 

 

故人の姓名、没年月日、死亡時の年齢、生前の地位や官職、事積などを記し、墓の中に納めたものを墓誌といいます。墓誌の歴史は中国の後漢時代(25年~220年)にさかのぼります。日本では7世紀後半から8世紀前半にかけて、火葬の普及とともに畿内の貴族層を中心に広まりました。これまでに古代の墓誌は16例が現存してます。

銅板や石、磚のほか、骨臓器の蓋にも銘文が刻まれました。墓誌は、古代の書物のみではわからない事実を明らかにしたり、当時の金工技術や書風などを伝えたりすることによって、古代の歴史、美術、工芸史を知る貴重な手がかりになります。

 

奈良時代の文字と役人の世界

 

 

日本では律令国家の幕開けとともに、文字の使用が、より一般的になりました。紙や墨は飛鳥時代に日本に伝わったとされ、正倉院には大宝2年(702年)の美濃国などの戸籍が残されています。ただし、紙や木簡、筆や墨などは地中に残りにくいため、遺跡から発見されることは珍しく貴重です。

律令国家が人民を管理するうえで大切な戸籍や税の記録などは、都や地方の役人が中心となり担っていたと考えられています。

また、こうした書面には公印である国印などが押捺されています。その一方で、軍団印、倉印(政庁などの倉庫を管理するための印)、寺印、私印なども各地でつくられていたことが発掘された資料によってわかってきました。

日本のハンコ文化はこの頃から始まったんだろうか?最近はハンコを使う機会も減ってきてはいるけど、まだまだ使われてるし、それを考えると、ハンコって凄いシステムだよね。

 

塼と塼仏

 

 

塼は粘土を焼いてつくった煉瓦です。建築物の土台や、寺院や宮殿の床、基壇の飾りなどに用いられました。塼は積み重ねたり、敷き詰めたりして使ったようですが、その形や文様にもさまざまな種類があります。

 

【塼と塼仏】

 

塼仏は粘土板に、仏や菩薩像などを浮彫状に表現したものです。木の型(笵型)に粘土を押し当てたものを乾燥されて焼いた後に、絵の具や漆で塗ったり、金箔(金泥)などで飾ったりした、きらびかやかなものです。寺院の内壁の装飾に使われたと考えています。日本では7世紀後半から8世紀前半の寺院跡から出土することが多く、とくに畿内の寺院での出土が多いといえます。

仏教が普及したこの時代、粘土の造形はこういった仏になってくるけど、縄文時代は仏みたいな決まった形みたいなものがなかったから、スピリチュアルなものを表現するのに「なんとなくのイメージで、ああいう派手派手な造形や模様になったのだろうか?」と、ふと思った。

だとすると、縄文土器を見た岡本太郎の「芸術は爆発だ」という言葉、あれって、見事な表現な気がする。

 

祈りのかたち

 

 

奈良時代の終わりから平安時代にかけて、山林で修行する僧が各地に現れるようになります。修行者たちは、神は仏の仮の姿で、本来は同一であるとする神仏習合思想の影響を受け、霊場を求めて山に登り、山霊を祀りました。

奈良県大峯山頂遺跡や栃木県日光男体山頂遺跡はその代表的な遺跡であり、修行の際に奉納された品々が出土しています。こうした山岳信仰は、やがて修験道という日本独自の民族宗教へと発展していくことになります。

 

【奈良時代の祈りの道具】

 

一方、平安時代に、正法、像法、末法の順に仏法の力が衰退していくとされる末法思想が浸透すると、貴族を中心に日本各地で経塚の造営が流行します、末法とは、釈迦の死後200年後に仏法の力が衰退する世の中を指します。

永承7年(1052年)が末法の初年にあたるとされ、相次ぐ自然災害や社会の乱れは末法に入ったために引き起こされたものと考えられました。

貴族は、56億7000万年後に弥勒が現れて人びとを救済するという予言を信じて、写経した経典を経塚に埋納することによって現世と来世の両方の安寧を願ったのでしょう。

それにしても「56億7000万年後」って、どんだけ先よ!

創聖のアクエリオンの「一万年と二千年前から(一億と二千年あとも)」ってレベルじゃない、キャッチーすぎるだろw

 

経塚

 

 

経塚は平安時代からの江戸時代にかけて、仏教の経典を埋めて守り伝えるためにつくられた塚です。現存最古の出土例は、奈良県金峯山山頂の経筒であり、平安時代の貴族、藤原道長が寛弘4年(1007年)に奉納したものとされています。

 

【経筒(重要文化財)】

 

経塚はつくられた時期や場所によって、塚のかたちや経典の種類、一緒に納められた品々に違いがあります。古代の経塚は経典を格納した経筒とそれを保護する外容器を中心に、銅鏡や白磁製品、銅銭や鉄製刀子など、さまざまな副納品が少なくなります。近世の経塚は小石に一文字から数文字の経文が墨で書かれ、一カ所から数カ所にまとめて埋納しました。

 

【経塚のイラスト】

 

また、紙に書かれた経典以外にも瓦や銅板、石や貝殻など、さまざまな素材に記された経典もあります。経塚は、経典を大切に守るタイムカプセルのような存在だったのです。

経塚って、RPGとかのゲームだと重要なアイテムが置いてありそう。

 

 

中世のあの世とこの世

 

 

鎌倉時代以降、政治権力が公家からの武家へと移り、社会や文化は武家の暮らしや好みを反映したものになりました。やがて、各地で城館を中心とする都市的な空間が形成されていきます。

 

【五輪塔】

 

鎌倉時代に神仏教が興ると、その一つである禅宗が武家社会に受け入れられるようになります。禅宗によって広められた喫茶は武家の社交の場として重要視されるようになり、茶器をはじめとする道具類が武家の威信を示すものとして、もてはやされるようになりました。

とくに唐物として中国製の文物が珍重されるようになると、瀬戸(愛知県)などの窯場では中国製品を真似た陶磁器が盛んにつくられるようになります。こうした陶磁器は骨臓器にも用いられました。

 

【板碑】

 

板碑はおもに個人の冥福を祈るためにつくられた石製塔婆です。鎌倉時代の中頃から室町時代にかけて、北海道から鹿児島まで各地でつくられました。板碑の作例はとくに関東地方に集中しており、その多くは「武蔵型板碑」と呼ばれる形式のもので、関東の武士が大きく関与していたと考えられます。

そういえば、個人の気持ちだけど、古墳とかは登っても罰が当たらなさそうな気がするけど、板碑とかに何かすると罰が当たりそうな気がしてしまうのはなんでだろうか?

 

 

江戸から掘り出されたモノ

 

 

慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍となり、江戸に幕府を開くと、江戸は政治や文化の中心になりました。江戸は、将軍の政務や居住の場である江戸城を中心に、土地の約7割を占める大名や旗本、御家人などの広大な武家屋敷のほか、寺社や町民などが住む町屋、宿場町などに区割されました。

木造家屋が密集していたため、幾度となく見舞われますが、そのたびに土地の区割や配置換えなど、火災に備えた復興がなされました。また、海浜部の埋め立てなど、人口増加に伴う居住地対策も進められ、江戸はアジアでも有数の巨大都市へと発展していきます。

 

【延金と延銀と金製品】

 

近年、東京都心の発掘調査によって、当時の江戸の様子が蘇ってきました。とくに大名屋敷跡の大規模な発掘調査により、建物の構造や配置が明らかになり、さまざまな出土品から、大名家の華やかな生活の様子もわかってきました。

また金貨、銀貨による貨幣経済の浸透によって物流が活発になると、各地の特産物が江戸にもたらされました。

 

掘り出された江戸の金貨

 

 

昭和31年(1956年)、銀座6丁目の小松ストアー(現在のギンザコマツ)の敷地内から、小判208枚と一分金60枚がまとまって出土しました。

発見されたのは江戸時代に発行された10種類の小判のうち、慶長小判、正徳小判、享保小判と、同じく江戸時代に発行された10種類の一分金のうち、慶長一分金、乾字(宝永)一分金、正徳一分金、享保一分金です。

いずれも金の含有量が高いものばかりであることから、高い品位の金貨を選んで集めたと考えられます。

この金貨が発見された場所は江戸時代の町人用地です。ほかの金貨に改鋳するために集められたという説もありますが、金貨を集めた目的、また金貨が埋められていた理由など、多くはまだ謎に包まれています。

 

【大判・小判(金貨)のレプリカ】

 

一方、昭和32年(1957年)2月、東京都大島(伊豆大島)の大島町岡田勝崎沖合約250mで貝を採取していた漁師が、推進20mほどの海底から小判を偶然拾い上げました。その後、その近くの海底の砂のなかから慶長小判20枚、元禄小判83枚、慶長一分金62枚、元禄一分金1枚もの大量の金貨が発見され、大きく注目されました。

これらのお金は海底の砂のなかに散らばって発見されたということですが、不思議なことに金貨のほかにはなにも発見されませんでした。沈没船の積荷などの説もありますが、なぜこの場所に沈んでいたのかは、いまだによくわかっていません。

そういえば、昔テレビで「徳川埋蔵金大発掘」とか、そんな番組がやってたよね。横穴とかが見つかる度に大騒ぎしていたけど、結局何も出てこなかったし、でも、テレビじゃないけど、埋蔵金が発見されたことって、実は結構あるんだよね。

そういう意味では、小判じゃないけど、近代の埋蔵金の発掘にはロマンがある気がする。

 

 

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