1. TOP
  2. 博物館
  3. 【博物館】日本の器の変遷がズラリ!「世界はやきものでできている」(愛知県陶磁美術館)

【博物館】日本の器の変遷がズラリ!「世界はやきものでできている」(愛知県陶磁美術館)

 2026/08/22 博物館 この記事は約 10 分で読めます。 10 Views

 

 

愛知県陶磁美術館に行ってきました。目的は窯を見ることだったんだけど、やきものの展示も楽しみ。

 

 

世界はやきものでできている

 

 

今回のメインの展示は「世界はやきものでできている」という展示。

この展示では、日本、中国をはじめとする世界各地の多様なやきものを歴史や魅力をテーマに紹介されています。

 

 

写真は、右から日本のやきもの、真ん中が欧州のやきもの、左が中国のやきもの。

 

 

日本のやきもの史

 

 

縄文土器

 

 

日本のやきものは、世界最古の16500年程前に始まる縄文土器にさかのぼります。基本的には縄文時代の人々は、狩猟・採集で食材を得ていましたが、土器の発明は煮炊きを可能にし、食生活を飛躍的に豊かにしました。

 

 

縄文土器の大部分は煮炊き用に用いる深鉢という形です。世界的にも類を見ない立体的な装飾の発達も、縄文土器の特徴です。

 

弥生土器

 

 

縄文時代に続く弥生時代は、2600年ほど前の紀元前6世紀頃、大陸から水田稲作の伝来とともに北九州で始まりました。

 

 

水田稲作が始まると、穀物の備蓄用に用いる壺が新たに定着しますが、壺を始めとした弥生土器の形の多くは大陸から伝来したものでした。

 

古墳時代(埴輪・須恵器)

 

 

3世紀には大形古墳の造営が行われる古墳時代が始まりますが、弥生土器の系譜を引く古墳時代以降、江戸時代まで続く土器を総称して土師器と呼んでいます。

 

 

古墳時代には古墳に並べるためのやきものとして埴輪も作られました。

 

奈良時代(須恵器)

 

 

16500年程前の縄文土器の誕生以降、古墳時代の土師器に至る14900年もの間、日本のやきものは「土器」のみでした。土器は700から800℃程度の温度で焼かれ、8世紀の奈良時代以降は窯でも焼かれますが、基本的には野焼きが行われます。

 

 

古墳時代の中頃、4世紀末から5世紀初頭に、須恵器というそれまでの土器とは全く異なるやきもの作りが、朝鮮半島南部から伝わりました。須恵器は給料の斜面をトンネル状に掘った窯を用い、1100℃を超える高温で焼き上げた黒から灰色の硬く丈夫なやきものです。

須恵器は土師器の比べ水漏れせず、長期間の液体の貯槽を可能にしました。須恵器はその後の日本の陶器の源流になり、以後、日本のやきものは急速に発展しました。

 

緑釉・三彩・灰釉

 

 

古墳時代の須恵器の登場以降、平安時代の9世紀まで、土師器を須恵器が大部分を占める時代が続きました。須恵器は土師器に比べ硬く、丈夫ですが、器の表面をガラス質でコーティングする「釉薬」は施されていません。

飛鳥時代の7世紀には緑に発色する緑釉を施した陶器が生まれ、8世紀には緑、褐色、透明の三食の釉薬を施した三彩生まれました。これらは朝鮮半島や中国からの技術により始まりました。

 

 

奈良時代までの緑釉・三彩は、宮都のある畿内で作られましたが、平安時代の9世紀には愛知県西部の猿投窯に技術が伝わり、高品質の緑釉陶器生産を実現しました。

 

 

平安時代、9世紀の猿投窯では、灰釉陶器の生産も本格化しました。灰釉は植物の灰を主原料とした釉薬で、猿投窯から東北地方各地に伝播しました。平安時代の緑釉陶器や灰釉陶器の形の多くは、当時最高ランクの器だった中国の金銀器や青磁・白磁に由来するものでした。

 

やきもの生産の変革と分業化

 

 

平安時代後期の11世紀から12世紀は、やきものの種類や生産体制などの変革期でした。例えば平安時代前半に大きく発達した緑釉陶器・灰釉陶器が一部の例外を除き消えていきました。これは中国のやきものの輸入増加が要因の一つと考えられています。

 

 

また、貯蔵用・調理用の壺・甕・鉢といった広域流通品を生産する大規模産地が誕生しました。

 

 

12世紀から16世紀前半、鎌倉時代から室町時代にかけて、生産地の淘汰と分業化が進みました。①食器中心の地元の土器生産、②貯蔵ぐ・調理具などの釉薬をかけず硬く焼き上げた陶器生産、③中国のやきものの形を積極的に取り入れ、高級品を志向した愛知県瀬戸窯の釉薬を施した陶器生産というような分業が明確されていきました。

 

瀬戸・美濃の茶陶

 

 

喫茶の文化は既に奈良・平安時代には中国から日本へもたらされていましたが、鎌倉時代の始まる12世紀以降、前週の広まりとともにより本格化していきました。

 

 

喫茶を行うには、天目、茶入、茶壷といった茶を飲む、入れる、運ぶなど、茶に関連するやきもの「茶陶」も必要になり、中国に倣いつつ日本でも生産が始まります。これらは基本的に鉄釉と呼ばれる黒褐色の釉薬が施されるのも特徴です。

鎌倉・室町時代にこれらの茶陶生産を担ったのが瀬戸窯で、隣接する美濃窯でも15世紀に瀬戸窯の技術を受けて茶陶が作られ、15世紀末以降瀬戸窯と美濃窯は両輪となって茶陶生産を行いました。

 

 

天目は瀬戸窯の茶陶の中でもいち早く13世紀末から開始され、終焉を迎える18世紀まで当時の流行に合わせて形を次々と変えてきました。14世紀初頭に茶入が、室町時代の14世紀後半には茶壷の生産も開始されました。

 

桃山茶陶の隆盛

 

 

茶の湯の世界では、安土物山時代(16世紀後半~末)に、茶陶における様々な変化が起こりました。茶人の千利休らによって、中国で作られた「唐物」へ傾倒していたそれまでの価値観が変わり、朝鮮半島のやきものや、日本で作られる「和物」が注目され、茶陶の新たな流行がはじまりました。

 

 

「和物」を作る日本各地の生産や技術にも大きな変化が起こります。中世から続く窯業地であった信楽、伊賀、備前、美濃などでも新たな価値観に合わせた茶陶が焼かれるようになった一方、豊臣秀吉による朝鮮出兵に伴い、西日本に唐津や萩をはじめ信仰の産地が誕生します。

 

 

新たな装飾技術として、京都で誕生した黒楽を筆頭に、美濃でも瀬戸黒など黒いやきものが登場します。また、筆を使い絵具で釉薬の下に文様を描く鉄絵が唐津や美濃で登場し、さらに美濃では黄瀬戸、志野、織部といった色とりどりの釉薬を用いたうつわが生まれます。

 

 

千利休の没後に活躍した古田織部らが流行を牽引し、各地で創意的な茶陶生産がおこなわれ、桃山茶陶は隆盛を迎えました。

 

磁器生産と色絵のはじまり

 

 

今から約400年前に、日本のやきものに新たな仲間が加わります。白く、硬い磁器が誕生したのです。磁器は、世界に先駆けて中国で作られ、西洋・東洋問わず、人々のあこがれの的となり、多くの製品が輸出されていました。

日本の磁器は、朝鮮半島からもたらされた技術により、1610年代に有田窯(現在の佐賀県)で誕生します。そして、1610年代には、その多くが西洋に輸出されていきました。

 

 

陶器の方にも、17世紀後期には新しい技術が登場します。京都で、野々村仁清が陶器に色とりどりの色絵を施し、絵画のような表現や大胆かつ雅な造形をやきものに採り入れていきます。また、絵師・尾形光琳の弟である緒方乾山は、琳派の意匠などを巧みに用いたことで、京焼のブランド価値を高めました。

磁器、そして色絵。この2つの新たな技術は、江戸時代を通じて発展し、日本のやきものはますます幅広く多彩な表現を獲得していきます。

 

各地へ広がる技術と、暮らしに浸透するやきもの

 

 

戦国の世が終わり、大きな戦のない江戸時代が長く続くと、有田や京都で誕生した時期や色絵の技術が全国へと広がっていきました。ここ愛知県瀬戸でも、磁器を焼けるようになり、古くからの陶器生産と新しい磁器生産の両方を行うようになりました。このように日本各地に伝わったやきものの波は、その土地で独自の発展を見せ、やがて名産品となっていったのです。

 

 

また、人々の生活が豊かになるにつれ、日々使う食器や暖房器具、明かりの道具などが生み出され、暮らしのあらゆるシーンでやきものが用いられるようになりました。医療や園芸の発展、旅行の流行なども、新たなやきものを生み出しました。

さらに、江戸時代中頃から流行した中国の文人趣味の影響も大きく、中国風の文房具や煎茶道具などが作られるようになりました。日本は260年続いた江戸時代を通じて、たいへん豊かなやきもの文化を育んでいったのです。

 

明治・大正期の陶磁器

 

 

明治期は、日本陶磁にとって、かつてない大変革期でした。明治維新による廃藩によって御庭焼きや御用窯は、保護を失い廃窯となると事が多く、残った諸窯も厳しい全国戦争、そして新規需要の獲得に向かわなければなりませんでした。

 

 

一方、殖産興業政策を進める明治政府にとって、陶磁器などの工芸品は、すでに幕末ごろから万国博覧会を窓口として欧米で強化が高くなっており、外貨を獲得する主要輸出品目の一つとして重視するべきものでした。

こうして政府主導のもと、多くの陶磁器が輸出され、好評を博したことから新規参入者も増え、同時に、欧米の最新技術や機械が導入されました。明治期の陶磁器は、新たな需要対応、技術導入などによって、急速に大きく姿を変えました。

しかし、好調だった輸出は、1900年のパリ万国博から、主にデザインの麺での変化の乏しさが批判され、転機を迎え、また当時政策の中で工芸と産業の分化も進みました。

 

 

大正期に入ると美術や工芸に関する欧米の芸術思想が広まり、新たな個人の表現行為としての作品制作が意識されるようになりました。

 

 

海を渡った古伊万里

 

 

日本では、1610年代に、現在の佐賀県にある有田窯で初めて磁器が焼かれ、輸送港の地名から「伊万里」と呼ばれるようになりました。初の国産磁器は国内でも人気でしたが、実は、1640年頃からはオランダ商人によって、まだ磁器を作ることができなかったヨーロッパに向けて大量に輸出されていきます。

 

 

磁器の輸出量は、中国の変革によって一時生産量が落ちていた景徳鎮窯の穴を埋める形で伸びていきます。しかし、やがて景徳鎮窯が生産量を取り戻し、オランダのアジア貿易における派遣もイギリスに移っていくと、約100年間続いた日本の磁器輸出は終わりを迎えました。

 

縄文土器からはじまった日本の土器・陶器・磁器の変遷。こうやって実物写真と歴史を見ていくとなかなか面白いね。

考古資料のまとめとして書いているサイトだけど、土器が中心だった縄文時代、稲作が中心になった弥生時代、古墳が中心となった古墳時代、そこから律令制が始まり、戦国時代を経て、江戸時代になり、明治維新へとつながっていく、その時代の流れを器を中心に見ていくのはなかなか楽しかった。

これに中国や世界の土器や陶器・磁器も展示されていたけど、そこまで書くと長くなるので、今回はこれで終わりにしようと思う。各国の器の写真はいずれ写真だけは上げるかも?

 

 

 

 

関連記事

  • 【博物館】逸品ぞろいの特別収蔵庫!(東京都埋蔵文化財センター)

  • 【博物館】田端東遺跡の中空土偶とめっちゃしゃべるおっちゃんの話(町田考古資料室)

  • 【博物館】疲れた体に鞭を打って東京国立博物館へ行ってみた!(東京国立博物館)

  • 【博物館】スタンプラリーで宮城遠征!蔵王町編!(ふるさと文化会館ございんホール)

  • 【博物館】かわいい狛犬がたくさん!「リ・デザイン・狛犬」(愛知県陶磁美術館)

  • 【博物館】常設展!多摩ニュータウン遺跡の縄文土器と歴史!(東京都埋蔵文化財センター)