【博物館】常設展!多摩ニュータウン遺跡の縄文土器と歴史!(東京都埋蔵文化財センター)

東京都埋蔵文化財センターに行ってきました。
東京都埋蔵文化財センターには、主に多摩ニュータウン遺跡で出土した遺物が展示されていて、常設展示だけでなく、縄文時代のムラを復元した「遺跡庭園」、常設展では展示しきれない遺物をのぞき見ることができる「特別収蔵庫」、更に子供たちも楽しめる「体験コーナー」など、幅広く行っている施設です。
こじんまりしているけど、個人的にはこれまで行った博物館系の中でも上位に入る場所だった。サンリオピューロランドの側だから、そこに行くついでに行ってみるのもいいかもね。
Contents
多摩ニュータウン遺跡

多摩ニュータウン遺跡は、多摩ニュータウン開発に伴い、丘陵地帯で発見された旧石器時代から近世まで、約964ヶ所に及ぶ広大な遺跡群の総称で、旧石器時代から縄文時代、弥生時代、古墳時代、中世、近世まで、各時代の遺構や遺物が豊富に見つかっています。
多摩ニュータウンといえば、スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台になった場所なので、聞いたこともある人も多いかもしれない。
東京都埋蔵文化財センターの遺物(常設展)

東京都埋蔵文化財センターには、旧石器時代から江戸時代まで多くの展示品があるけど、個人的に面白かったのが縄文土器の展示。博物館に展示されている土器は、普通ならお触り禁止だけど、ここは直接触って質感なんかも確かめることができる展示になってるので、面白かった。
多摩ニュータウンのビーナスと丘陵人の肖像

展示室前では「多摩ニュータウンのビーナス」と「丘陵人の肖像」がでーんとお出迎え!2つとも何とも言えない表情をしているのが非常にかわいい。
【多摩ニュータウンのビーナス】

どうよ?この穏やかな表情w
土偶でビーナスといえば、国宝になっている縄文のビーナスが有名だけど、それに負けずとも劣らない可愛らしさ。表情だけならこっちの方が可愛いくらいだと個人的には思う。なんと2009年には、あの大英博物館にも展示されたという逸品。もはや世界的大スターです。
【丘陵人の肖像】

一方の丘陵人の肖像は、仮面をつけたスーパーヒーローのような遺物。
眉毛や鼻の穴まで再現された至高の逸品。有孔鍔付土器の装飾として貼り付けたりしたと考えられているらしい。そういえば、かの有名な岡本太郎が縄文土器を見て「芸術は爆発だ!」という名言を残したらしいが、この遺物からもそんな力強さが感じられる気がするw
縄文時代の落とし穴

我々が普段掘っている落とし穴、実際にイノシシが穴に落ちた時の落とし穴のレプリカと想像図。展示スペースの都合上、深さは浅めになっているけど、現場では深さ2mあったらしい。ちゃんと逆茂木をして、イノシシが逃げられないようにしているところも再現度が高い。
東京都埋蔵文化財センターの縄文土器(早期)

東京都埋蔵文化財センターは、縄文土器以外にも、旧石器時代の石器、弥生時代の装飾品、古墳時代の土師器、奈良・平安時代の須恵器など、いろいろ展示があるけど、縄文土器の種類が豊富だったので、今回の記事では主に縄文土器を中心に紹介。
押型文土器(縄文時代早期)

押型文土器(おしがたもんどき)は、縄文時代早期から前期にかけて作られた、彫刻した棒を土器に押し付けて回転させ、幾何学的な文様(山形文、格子文、楕円文など)をつけた土器。丸棒に彫った溝を回転させて作るため、山形文、楕円文、格子目文、賽目文などが連続する。縄文早期中頃に日本列島全体に広がり、九州に遺跡が集中しているらしい。

縄文土器の中ではシンプルな方かな?よくある派手派手な土器は、縄文時代中頃が活発なので、序盤はこれくらいだったんだろうね。
鵜ヶ島台式土器(縄文時代早期)

鵜ヶ島台(うがしまだい)式土器の標式遺跡は、神奈川県三浦市の鵜ヶ島台遺跡で、文様は貝殻条痕文の上に沈線と刺突文による文様を構成し、器形は段とくびれ部をもつ平底の深鉢形になっている。
刺突文がかなり特徴的な土器だなって思う。最近、天文台に行ったからか「点を線で結ぶところなんかは星座を彷彿とさせるな」って思った。
野島式土器(縄文時代早期)

野島式土器(のじましきどき)は、底部が尖ったいわゆる「尖底土器」で、縄文時代早期の特徴を持つ。表裏に貝殻でつけた沈線や平行線・菱形の文様を表している。神奈川県横浜市金沢区の野島貝塚で発見された。
縄文土器って、よく「〇〇式土器」って名前で識別されているけど、実際に土器の文様は結構共通の形で一致しているらしい。なんか自由に作ってそうなイメージがあったんだけど、しっかりと管理されていたんだね。
稲荷台式土器(縄文時代早期)

稲荷台式土器(いなりだいしきどき)は、土器は尖底の深鉢形で、表面には主に撚糸文が施されているのが特徴。縄文時代早期の一時期を画する標式遺跡として評価されており、そのため、発見された土器と同型式の土器は「稲荷台式土器」と呼ばれているらしい。
見た目はかなり地味な土器だけど、早期の土器の中では割と指標になっている土器なんだとさ。
平坂式土器(縄文時代早期)

平坂式土器(ひらさかしきどき)は、縄文時代早期(関東・南東北地方)に特徴的な無文(模様がない)で尖底(とがり底)の深鉢形土器で、神奈川県横須賀市の平坂貝塚を標式遺跡とし、夏島式土器(撚糸文土器)の後に位置づけられる土器様式です。
外面は削り調整され、まれに疎らな文様が見られることもありますが、基本的には無文で、縄文草創期の土器として重要視されています
文様がある土器があるならば、そりゃ文様がない土器もあるわな。展示されているのを見ると、縄文時代前期になっているけど、ネットだと創期から早期への移行期の模様の変化の指標になっているとなってた。
平坂式土器(縄文時代早期)

平坂式土器(ひらさかしきどき)は、縄文時代早期(関東・南東北地方)に特徴的な無文(模様がない)で尖底(とがり底)の深鉢形土器で、神奈川県横須賀市の平坂貝塚を標式遺跡とし、夏島式土器(撚糸文土器)の後に位置づけられる土器様式です。
外面は削り調整され、まれに疎らな文様が見られることもありますが、基本的には無文で、縄文草創期の土器として重要視されています
文様がある土器があるならば、そりゃ文様がない土器もあるわな。展示されているのを見ると、縄文時代前期になっているけど、ネットだと創期から早期への移行期の模様の変化の指標になっているとなってた。
子母口式土器(縄文時代早期)

子母口(しぼくち)式土器は、標式遺跡は神奈川県川崎市高津区の子母口貝で、特徴は、胎土に繊維が混入されている点で、口縁部に隆起帯があり、縄文を回転させずに押捺したような「絡条体圧痕文」が見られること、器面調整に貝殻を用いた「貝殻条痕文」が施される点にあります。こちらもやはり尖底。
早期の土器は尖底のモノが多い。使いづらそうだけど、組んだ石の上で使うからそうでもないのかな?この写真だと、ネットで調べた子母口式土器の特徴は見受けられないがどうなんだろう?
子母口式土器(縄文時代早期)

子母口(しぼくち)式土器は、標式遺跡は神奈川県川崎市高津区の子母口貝で、特徴は、胎土に繊維が混入されている点で、口縁部に隆起帯があり、縄文を回転させずに押捺したような「絡条体圧痕文」が見られること、器面調整に貝殻を用いた「貝殻条痕文」が施される点にあります。こちらもやはり尖底。
早期の土器は尖底のモノが多い。使いづらそうだけど、組んだ石の上で使うからそうでもないのかな?この写真だと、ネットで調べた子母口式土器の特徴は見受けられないがどうなんだろう?
東京都埋蔵文化財センターの縄文土器(前期)

つづいて、縄文時代前期(約7000~5500年前)の土器。この頃は地球が最も温暖化し「縄文海進」がピークに達した時期だったらしい。
関山式土器(縄文時代前期)

関山式土器(せきやましきどき)の特徴は、羽状縄文という独特の文様にあり、羽状縄文とは右撚りと左撚りの縄文を上下に連続してつける施文方法で、全体として羽や菱形の形に見えるようになっています。
花積下層式土器、関山式土器、黒浜式土器の3つは「羽状縄文系土器群(うじょうどきぐん)」と呼ばれ、胎土に繊維を多量に混ぜられて作られるのがポイントです。そのため、割れ口に燃えつきた植物の痕跡が残ることがあります。
調べた結果の「羽や菱形の形」と言われても、正直見た目的にあまりピンと来ていないのだが、そういうものだんだろう。きっとw
諸磯式土器(縄文時代前期)

諸磯式土器(もろいそしきどき)の特徴は、胎土に砂粒が多く、繊維を含まないものが多数だけど、含むものもあるらしい(古い段階、および東関東に目立つ)。


文様は、竹のようなものを切断してその断面を押し付けて刺突文を付けたり、あるいは竹のようなものを半裁した施文具によって、平行沈線や爪形文が施文されている。


因みに、この頃から土器も深鉢形のほかに、浅鉢形、まれに壺形や皿形などの新しい器形が出現し始めたのだそう。
これまで、いろいろな土器を見てきたけど、土器クイズがあっても分類とか無理やな。利き酒とかよりも難しい気がする。
十三菩提式土器(縄文時代前期)

十三菩提式土器(じゅうさんぼだいしきどき)の特徴は、口唇部に立体的な文様が付いている点です。

諸磯式期にも突起などの立体的な造形が出てはいましたが、十三菩提式土器では、粘土紐によって「W」字や「渦巻文」を安定的に施すようになります。 器面全体のデザインに派手さが増してきて、中期のバブリーな時代の到来を予見させられます。
縄文土器といえば、こんな感じといった土器な気がする。これ以降から中期にかけて、使用感無視の派手派手な土器が出てくるようになるので面白い。
東京都埋蔵文化財センターの縄文土器(中期前半)

つづいて、縄文時代中期(約5500年前~)の土器。縄文土器が一番派手さを増した時期。派手な土器代表の火焔型土器もこの頃のモノ。
勝坂式土器(縄文時代中期前半)

勝坂式土器(かつさかしきどき)は、隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である。主に関東地方及び中部地方に分布している。

触った感じだと、というか見た目的にも、器壁が分厚いのも特徴的だと思った。装飾が派手だから、それに耐えうる分厚さが必要だったのかもしれないな。

相模原市立博物館で展示されていた縄文土器も勝坂式が多かったから、神奈川とか関東でも西の方では、この型が主流だったんだろうね。

因みに、千葉だと阿玉台式土器、新潟だと火焔型土器、山梨や長野だと水煙式土器なんかが、縄文時代中期の土器の代表でそれらもド派手な作りになっているので、全国的にこの時期に土器の派手さがピークに達したってのが面白いね。
東京都埋蔵文化財センターの縄文土器(中期後半)

つづいて、縄文時代中期(~約4400年前)の土器。縄文土器が派手さが落ち着いてきた頃の土器。我らが加曾利貝塚の名前を冠した土器が流行った時期なので、千葉県民のワイにとっては、なんだか誇らしいw
加曾利E式土器(縄文時代中期後半)

加曾利E式土器(かそりEしきどき)が縄文時代前期と異なる点は、縄文を施文する原体が、前期の関山式が複々節以上の複雑な原体がほとんどなのに対し、単節の原体がほとんどであることである。(ごめん、意味が分からないw)
膨らみを持った胴部からなる曲線美が特徴的で、過度な装飾表現はされず、隆帯と沈線による比較的簡素な文様が特徴。 形や模様により細分されE IからE IV式に分類されるのが一般的。

加曾利貝塚について詳しく書いた記事(加曾利貝塚の記事まとめ)があるので、加曾利式土器については、そっちを見た方が良いかもしれない。あ、でもE式については書いてないかもw

デザイン的には勝坂式土器に比べるとシンプルだけど、洗練されたデザインと使い勝手の良さそうな機能美が万人受けしそうな感じだと思った。なんかそんなことを考えると、現代の家電や食器にも通じるものがあるような気がしてくるw
曽利式土器(縄文時代中期後半)

曽利式土器(そりしきどき)の特徴は、水煙文や渦巻文、隆帯と沈線で描かれる装飾が特徴です。千葉をはじめとした東関東から勢力を拡大して行った、加曾利E式土器と西関東でバチバチの覇権争いを繰り広げた土器(やや、加曾利E式に押され気味)。尚、実際にバチバチしていたかどうかは知らん。

土器の勢力争いっていうのもなんだか面白いけど、実際に地域ごとの土器の流行廃りを見ていると、そんなものがあったように感じされる。我らが千葉県を代表する土器が強かったのは、ちょっと嬉しい。
東京都埋蔵文化財センターの縄文土器(後期)

つづいて、縄文時代後期(約4400~3200年前)の土器。この頃の多摩地区では、丘から人が降り始めた時代らしい。原因は分からないが、気候変動が原因なのか、以前に比べて縄文時代のムラも少なくなっていたんだとか。
称名寺式土器(縄文時代後期)

称名寺式土器(しょうみょうじしきどき)は、縄文時代後期初頭(約3500年前)に関東地方で広く分布した縄文土器の代表的な型式で、横浜市金沢区の称名寺貝塚で発見され、この貝塚が標式遺跡(基準となる遺跡)です。
特徴として、細かい縄文を「J」字や渦巻き状に磨消した美しい文様と、中空円筒形の把手、菱形を呈する造形などが挙げられ、西日本(近畿地方)の影響を受けつつ土着化した土器として知られています。
西日本からの新勢力というか、土器の勢力争いが面白い。そういえば、ふと思ったんだけど「〇〇式土器」っていうような区分って、弥生時代にもあるのかな?
堀之内式土器(縄文時代後期)

堀之内式土器(ほりのうちしきどき)は、関東地方を中心に隣接地域にも広く分布しており、縄文を施した上に太い線で文様を描いた堀之内Ⅰ式と細い線の間に縄文を施して文様を描いた堀之内Ⅱ式に区分されています。そのテリトリーは、前代の称名寺式の範囲に北陸や南東北が加わり広大になっている。

また、関東地方では堀之内式期から注口土器がたくさん造られるようになったのもポイントです。
注ぎ口が付いた土器は、この頃から作られるようになったんだね。これまでの鉢や椀と違って、注口土器はなんだかかっこいい。

あと、余談だけど、称名寺とか堀之内とか、なんとなくお金持ちの家の苗字っぽく感じるのはワイだけ?
加曾利B式土器(縄文時代後期)

加曾利B式土器(かそりBしきどき)は、縄文時代後期中頃(約4000年前)に関東地方を中心に流行した土器で、千葉県の加曽利貝塚で発見されたものを標準として名付けられ、土器編年の基礎を築いた重要な形式です。

特徴は、集合沈線文や磨消し縄文がみられ、深鉢、鉢、壺、注ぎ口付き土器など多様な器形がセットで作られました。
加曾利B式土器は、以前開催された加曾利B式展でお勉強したやつなので、結構なじみが深い。特に印象に残ったのが、特徴の一つの磨消し縄文。なんで、わざわざ一度描いた文様を磨消したんだろうね。
東京都埋蔵文化財センターの弥生土器

縄文土器に比べると影の薄い弥生土器。稲作が始まった時代だから、どうしても稲作に目が行ってしまいがちだけど、稲作が始まった結果、縄文時代はなかった坪型の形状が生まれたんだそう。
宮ノ台式土器(弥生時代中期後葉)

宮ノ台式土器(みやのだいきどき)は、今からおよそ2000年前の南関東地方で使用されたものです。宮ノ台という名前は千葉県茂原市の宮ノ台遺跡からとられたものですが、神奈川県内でも広く出土することが知られています。

文様は、髪をとかす櫛くしのような工具で並行する複数の線が引かれていて、。一般的に「櫛描文(くしがきもん)」と呼ばれ、西日本でよく見られる文様です。

櫛描文が施されているのが特徴のひとつですが、縄文が施されているものもあります。実際、上の写真の壺の頸部にも縄文が施されています。
とまぁ、こんな感じで土器の特徴をネットで簡単に調べて並べてみたけど、いまいち違いは分からんね。こういうのか数多く見て、徐々に感覚的に覚えていくしかないと思う。
カマドの復元模型

カマドの復元模型も展示されていから載せておく。
朝鮮半島から日本にカマドが伝わってきたのは、5世紀の中頃。熱効率がロよりもいいので、広く普及した。

カマドの何がすごいって、ガスコンロが普及する現代まで、長い間愛用されてきたところにある。下手したら昭和ぐらいまで使われていたんじゃないかな?

古墳時代の遺跡を掘る際にメインになる設備だから、こうやって復元模型があるのはありがたいね。
奈良時代の多摩ニュータウン遺跡

奈良時代になると、多摩ニュータウンの辺りは、国分寺などが建設がされるようになったため、産業の中心が窯業へと変化していったらしい。

実際、多摩ニュータウンの辺りは丘陵だったから、粘土は豊富にあるし、燃料としての木材も多いし、瓦や須恵器などの生産が盛んになったみたい。
弥生時代の方形周溝墓や古墳時代の古墳から、お寺を中心とした社会に変化したわけだ。
平安時代から鎌倉時代の多摩ニュータウン遺跡

多摩丘陵では、平安時代になると、小野牧(多摩市)・由比牧(八王子市)・小川牧(あきるの市)の3カ所に御牧と呼ばれる朝廷直轄の馬牧が置かれたらしい。
で、この牧の管理を任されたのが、このエリアの富豪層で、彼らは馬を生産しながら耕地を開墾し、窯業や鍛冶などを生業として暮らしていて、10~11世紀頃には、御牧周辺の村々では、馬具や武器などを作る鍛冶工房が増加。その後、馬と鉄を掌握した富豪層が武士団へと変化していったんだって。

平安時代の後期から鎌倉時代の初めころ(11~13世紀)にかけて、仏教の教えが弱まると、末法思想が流行り、それにともなって、各地の富豪層は領地内の安泰と来世での幸福を願って経典を納めた経塚を築き、そこを聖地にしました。
この頃くらいから、だいぶ考古学というよりは、歴史といった感じの認識になってくる。武士の登場辺りからはもう歴史よね。
室町時代から江戸時代の多摩ニュータウン遺跡

室町時代、多摩地域(武蔵国)は山内上杉氏と犬懸上杉氏が武蔵守護として支配し、特に山内上杉氏の守護代(大石氏など)が在地勢力と連携して国人層を組織化し、領国経営を行いたらしい。
また、多摩川上流域の「袖保(ゆほ)」と呼ばれる豊かな森林地帯も、鎌倉時代から三田氏が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の指揮下に入って、上杉氏の領国支配の一翼を担っていたんだそう。
東国武士団の駆ける丘

鎌倉幕府が倒れると、時代は有力な大名が覇を競う動乱の時代へと変化。多摩丘陵も例外ではなく、武士の居館がいくつか建てられたんだとさ。
で、それらの遺跡からは、中国製の良質な古瀬戸のやきもの、城や多数の銭を埋葬した遺構などが発見され、そこから当時の緊張した権力争いの様相が見て取れるらしい。
江戸と共に生きる村々

江戸時代に入ると、武士の多くは身分を捨て村の中心的な存在として生活をするようになり、徳川幕府の成立に伴って、多摩丘陵では、里山の豊富な資源を活かして、燃料用の炭づくりが盛んになったんだそう。

一方、多摩地域の村々にも全国各地の産物が江戸を通じて流通するようになり、食器をはじめ、生活用具に様々なやきものが用いられるようになりました。この暮らしぶりは、多摩ニュータウンの開発直前まで名残をとどめたんだそうな。

最後の方は、もう考古学というよりも、文字通り歴史なった気がするが、多摩ニュータウン遺跡の変革をざっくりまとめると、こんな感じだった。なんか土器の紹介をしていたはずが、古墳時代辺りからは土器ではなくなってしまったw
