【博物館】国宝が盛りだくさん!火焔型土器と雪国の暮らし!(十日町市博物館)

縄文スタンプラリーの続きで「十日町市博物館」にやってきました!
十日町市博物館は、「国宝・火焔型土器のふるさと(雪国と織物と信濃川)」をテーマに、火焔型土器と王冠型土器の展示を中心に、雪国に暮らした人々の生活や文化などを展示している博物館。
展示されている品は、笹山遺跡から発掘された縄文時代の火焔型土器など深鉢形土器57点が新潟県唯一の国宝に指定。さらに「越後縮の紡織用具及関連資料(2098点)や「十日町の積雪期用具3868点)」も国の重要有形民俗文化財に指定されている。
今までいろいろな土器を見てきたけど、国宝指定の火焔型土器は感動するレベルで素晴らしかった。土器を見て感動したのは初めてかもしれない。
Contents
十日町市の土器の形と文様の変遷

縄文時代は、土器の出現(約16000年前)から水田稲作が始まる(約2400年前)までの日本列島で、採集・狩猟・漁労を主な生業とする人々が定住生活を始めた時代で、草創期(約16000~約11300年前)・早期(約11300年~約7200年前)・前期(約7200年~約5400年前)・中期(約5400年~約4400年前)・後期(約4400年~約3200年前)・晩期(約3200年~約2400年前)の6期に区分されています。
各時期に地域ごとに共通した形と文様を持つ土器が見られ、土器に付着したコゲ(炭化物)を放射性炭素年代測定で分析することで、土器の年代を知ることができます。
現在、日本で最も古い土器の年代は、青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した無文土器の16500年前で、十日町エリアでは、縄文時代中期の土器形式である火焔型土器のような過剰なまでに装飾が施された土器が多く見つかっています。
縄文時代草創期の土器

旧中里村の信濃川と清津川が合流する付近では、縄文時代草創期の遺跡(中林遺跡・田沢遺跡・壬遺跡)などが見つかっています。

【干溝遺跡(隆起線文土器)】
また、近年の発掘調査によって、干溝遺跡・久保寺南遺跡などの資料が新たに加わりました。それらの遺跡からは底部が丸底となる隆起線文土器が出土し、久保寺南遺跡からは土器のほかに、石槍、局部間瀬石斧、有溝砥石などの石器も出土しました。
土器の形というか造形を観てみると、シンプルで無駄がないような気がする。やはり最初期に作られた土器だけあって、まだ土器に装飾を施すという考えがなかったんだろうな。
縄文時代前期の土器

【赤羽根遺跡(浅鉢)】
十日町市内の主な前期の遺跡には、北原八幡遺跡・赤羽根遺跡・鷹之巣遺跡・干溝遺跡・泉竜寺遺跡などがあります。
縄文時代早期の土器には、土器の胎土に繊維を多量に混入し、器形を大きくする工夫が見られます。また、丸底形や尖底形の土器が多く、それらの土器は置くには不安定ですが、暖められた水が対流して熱がまんべんなく回り、煮沸に好都合です。早期の土器には、撚糸文、表裏縄文、押型文、貝殻文、沈線文、条痕文、絡条体圧痕文などの文様があります。
縄文時代前期になると、平底の土器が多くなります。平底の土器は丸底のものに比べて熱効率は低くなりますが、置いた時の安定性に優れています。浅鉢や片口鉢が出現しますが、大多数は煮炊き用の深鉢形土器です。前期前半の土器には、斜縄文、羽状縄文、ループ文、コンパス文などの文様があります。器形のバラエティや縄文の施文原体のレパートリーは、この時期までにほとんど出そろっています。
縄文時代前期後半の土器には直物繊維の混入が見られなくなり、大型化の傾向がさらに強まります。また、竹管文が多用されることも特徴の一つです。
ってな感じで解説によると、縄文時代前期頃から文様のバラエティが富んできたっぽい。職人のこだわりと言うのか、縄文人たちの精神性の表現と言うのか分からないけど、主張が出てきて面白い。
縄文時代中期の土器

信濃川の両岸に広がる河岸段丘には、縄文時代中期(約5400年~約4400年前)の遺跡が多く存在します。国宝を出土した笹山遺跡をはじめとして、野首遺跡・南雲遺跡・大井久保遺跡・小坂遺跡・幅上遺跡・森上遺跡などが代表的な遺跡です。

【野首遺跡(火焔型土器)】
それらの遺跡を含め市内40遺跡ほどで火焔型・王冠型土器が出土しており、現在までに復元された火焔型土器は30点、王冠型土器は16点にのぼります。



【笹山遺跡・野首遺跡(火焔型・王冠型土器)】
火焔型土器は、新潟県内でも中魚沼群津南町から十日町市、そして長岡市にかけての信濃川上・中流域で集中して出土し、縄文芸術を代表する土器の一つです。しかし、火焔型土器は中期の中頃である約5000年前に出現し、500年ほどで姿を消しました。
これだけ派手派手で装飾性抜群の土器が500年で姿を消した理由は何だったんだろう?何か大きな心境の変化というか、信仰心の変化というか、そういうものがないと終わったりはしないよね。謎は尽きない。




【小坂遺跡・森上遺跡・笹山遺跡(深鉢形土器・台付鉢形土器・鉢形土器)】
縄文時代中期の十日町エリアの遺跡は、火焔型土器だけでなく、他の土器も作られている。それらの土器も立体的な装飾が施されたものや台付のものなど、派手な形のものが多い。
というか火焔型土器が異形すぎるから、そっちばかりに目が行くけど、実際は火焔型土器や王冠型土器以外の土器の方が多かったんよね。
縄文時代後期の土器

十日町市には、縄文時代中期と同様に後期(約4400年~約3200年前)の遺跡も多く存在し、寿久保遺跡、野首遺跡、笹山遺跡、上ノ山開墾地遺跡、中島遺跡など中期と時期が重複する遺跡もあります。

【栗ノ木田遺跡(鉢)縄文時代後期】
野首遺跡と栗ノ木田遺跡では配石墓が発見され、その上の土壙から土器が出土しています。器形は。深鉢、鉢、浅鉢があり、倒立して埋められていました。薄く丁寧なつくりの土器で、鉢と浅鉢には内側に文様が描かれているものもあります。これらの土器は堀之内式・加曽利B式土器と呼ばれる縄文時代後期前半の土器です。
縄文時代後期になると、派手な装飾よりも実用性に走ったのか、一部地域だけでなく、全国各地で一斉に土器の文様や装飾が落ち着く不思議。マジで何があったんだろう?
縄文人の食と道具

縄文時代の人々は、土器を使用して調理することにより、食べられるものの種類が格段に増えたと考えられます。春の山菜や夏から秋のキノコ、木の実、魚、動物など季節に応じた食料を食べていました。

調理する道具として使われていた石皿や磨石。クッキー上の炭化物の複製。

石斧、石槍、石鏃、尖頭器などの狩りの道具。
弓矢は狩猟を行うために発明された画期的な胴部のひとつで、ウサギ猟に使用されたワラダ(ノウサギを捕まえるために使う、藁を円盤状や輪っか状に編んだ手道具)は、近現代史の民俗資料にも残されています。魚を捕るための道具には釣針や銛などがあり、動物や魚の骨で作られました。
縄文時代の食生活は、思っているよりもめちゃくちゃ豊かだったらしい。争いもなかったみたいだし、実は現代のストレス社会よりものびのびとした良い社会だったのかもしれない。
縄文人のファッション

植物の繊維を編んで作った服が一般的だったが、動物の毛皮を加工して作った服も身につけていました。また、装飾品は、櫛、耳飾り、首飾り、腕輪、腰飾りなどがあり、縄文人がアクセサリーやファッションに高い関心を持つ豊かな感性を持っていたことを示しています。



縄文人の体形や顔つき、髪型、服装などは土偶からある程度推定できます。
また、遺跡からは髪飾り、耳飾り、首飾りなどの装飾品が出土しますが、その中には漆やベンガラなどが塗られたものもあります。装飾品の素材も石や粘土だけでなく、木、骨、角、貝などバラエティーが豊かで、そこからも縄文人がオシャレだったことが伺えます。
縄文人の住居とムラ

縄文人が住んでいた場所は、日当たりがよく、水に恵まれた場所でした。森は木の実や動物が豊富で、川は魚がとれる。そんな条件の場所だったはずです。

住居造りは長い時間と労力をかけて、共同で行われていたと考えられています。集落には住居はもちろん、祭祀を行う広場や墓場などがあり、ムラづくりは計画的に行われました。

縄文時代の住居は、直径5~8m、深さ30~50cmほどの穴を掘った竪穴式住居が一般的で、4~7本の柱を立てて屋根を組み、屋根材で覆い、風雨や雪に耐える工夫をしていたと考えられています。その他に平地式、高床式などの住居もあります。
約6000年前の縄文時代前期後半までには、定住的なムラがつくられるようになり、中期になると住居や建物などが環状あるいは馬蹄形に広がる大規模な集落が営まれました。斜面を利用した土器捨て場や貯蔵穴群など、遺跡からは、暮らしやすさを追求したムラづくりの様子がうかがえます。

ムラとムラの間では、婚姻や親戚づきあい、交易を通じて人々が良き気をしていました。このため土器の意匠が互いに似ていたり、特定の場所でしか採れない貝や宝石が広く行きわたりました。たとえば、新潟県姫川周辺のヒスイは、北海道や沖縄など数千キロメートルも離れた場所にまで運ばれました。
縄文人たちは、他の地域に住む遠くの人たちに翡翠とか黒曜石とか、自分たちが苦労して手に入れた物を分け与えていたんよね。もちろんお返しに山地では手に入れられない海産物や貝などを交換品としてもらっていたんだろうけど、それでも他人に物を分け与えるってなかなか難しいと思う。
縄文人の祈り

縄文人は、神や精霊などが持つ超自然の力を信じていました。そのため、土偶や石棒、二至二分(夏至と冬至・春分と秋分)に関連する記念物、墓などを作って、その力に働きかけるための祀りを行っていました。
土偶(女性の象徴)

土偶は人間人似た姿で、乳房や突き出た下腹部などにより、女性性を表現しています。東北地方から中部地方にかけての地域では約5400年前から、関東地方では約4400年前から急増し、約2400年前の縄文時代の終わりまで存在しました。土偶はその姿形から親族や子孫の繁栄を願って作られたと考えられています。
石棒(男性の象徴)

石棒も子孫繁栄を願って作られたもので、男性の性器をかたどっています。起立させた状態で住居内や屋外の施設に設置されることがあり、祀りの行為を想像させます。

【小坂遺跡(彫刻石棒)】
男性原理の現れは、石刀・石剣のような細長い製品や石冠のような亀頭状の製品にも見ることができます。こうした石製の道具で女性性をかたどったものはなく、石は男性性と強く結びついています。
弔い(死者をおくる儀式)

【栗ノ木田遺跡(配石墓模型)】
縄文人も多様な方法で弔いを行っていました。新潟県では遺体に矢尻やサメの歯を副えて埋葬した例が有名ですが、十日町では土器を頭部に被せて埋葬し、その上に石を敷き詰めて墓標のような石を立てた例があります。これは縄文時代後期(約4400年前~)のもので、縄文時代の墓の作り方としては手の込んだものです。
この頃、墓を住居に近い区域から独立させ、墓域と呼ばれる特別な空間を創出するようになりました。墓の形と墓域の変化は、死の世界との関係が変化したことを暗示しています。
十日町博物館の国宝土器

火焔型土器

火焔型土器は東日本の200を超える遺跡で確認されており、そのほとんどが新潟県内に分布しています。長野県や群馬県など周辺地域でも火焔型土器に似た土器は見つかっていますが、それらは新潟県の物に比べ土器の形や文様が変容しています。



典型的な火焔型土器は新潟県内に分布が限られ、最盛期の火焔型土器は津南町、十日町市から長岡市にかけての信濃川上流から中流の地域に集中しています。この地域には大規模な集落も多く「火炎が当た土器のクニ」と呼べるような一大文化圏が形成されていました。

火焔型土器のデザインの特徴は、縄文土器なのに縄文が使用されず、渦巻文やS字文、隆線文や沈線文などが基面全体に描かれている点です。口縁部に鶏頭冠突起や鋸歯状突起、頸部に袋状突起やトンボ眼鏡状突起が付き、形状は深鉢形がほとんどを占めます。
火焔型土器は貯蔵穴や住居跡などから出土することがあり、内面に食べもののコゲが付いていることが多いことから、煮炊きに使用されたことは間違いありません。その特異な形や装飾的な文様などから、祭祀など特別な時に用いられた器とも考えられています。

火焔型土器の独特な形や文様が生まれた背景には、周辺地域の影響があったのではと考えられています。竹管で渦巻文やS字文を描く手法は、北陸地方の新崎式(にんざきしき)から引き継がれました。口縁部の鶏頭冠突起は、東北地方南部の大木式(だいぎしき)に深く関わっています。
また、キャタピラ状の隆線文やトンボ眼鏡状突起は、関東・中部地方の勝坂式や新巻・焼町式の特徴と考えられます。
さまざまな地域の流儀を取り込み、発展させることで、火焔型土器は誕生しました。火焔型土器は、縄文文化の結晶であり、その到達点と言えます。
王冠型土器

王冠型土器は、口縁部が大きく波打ち、短冊形や台形状の突起が4つ巡る姿が王様の冠のように見えることから名付けられた土器で、火焔型土器の兄弟分ともいえる存在です。
火焔型土器との共通点として、表面は渦巻く隆起線文や袋状突起など共通の文様で覆われており、破片だけでは区別が難しい点があげられます。主に煮炊きなどの実用的な深鉢として使われていました。
深鉢形土器



浅鉢形土器

十日町市の土器(笹山遺跡の土器)が国宝に指定された理由は、立体的な渦巻き・隆線など、実用品を超えた優れたデザイン性、複雑で迫力ある立体装飾を精巧に作り上げた高度な成形・焼成技術が考古学的・美術的価値の高さなどがあげられます。
なにより単体ではなく、笹山遺跡から深鉢形土器57点(火焔型17点などを含む一括)で出土し、当時の文化や生活象を伝えるまとまりのある資料であると評価されたことが大きいです。
実際、この目で土器を見てきたけど、美実品と思えるレベルの土器だった。ダヴィンチのモナリザ、ミケランジェロのダビデ像、ゴッホのヒマワリを見た時と同じくらいの感動だった。見たことないけどw
織物の歴史

織物とは

織物は、経糸と緯糸を組み合わせて作った布です。織機に経糸を張り、綜絖という道具で交互に上げ下げし、その間に緯糸を通して打ち込む作業を繰り返して織り上げます。最も基本的な織り方は、経糸と緯糸が一本おきに交差した平織りです。

布を織る技術は、中国大陸から伝わったと考えられており、日本列島では平織の織物が弥生時代に作られるようになりました。
古代(白越の時代)

律令国家が成立すると、政府は織布を調や庸などの税物として庶民に納めさせました。調はその土地の産物、庸は労役の代わりに納める物です。奈良の正倉院には、天平勝宝年間(749年~756年)に越後国久疋(頸城)郡夷守(美守)郷から貢献された、カラムシ製の庸布が所蔵されています。越後国産の織布は、時代を追うごとに品質を高め、平安時代中期には白越と呼ばれて、庶民の着用が禁じられるほどの高級品でした。
中世(越後布の時代)

カラムシの繊維を精製したものが青苧(あおそ)です。越後さんの青苧を原料とした織物は、越後布(白布)と呼ばれていました。鎌倉時代以降、越後布は朝廷や貴族、武将たちの贈答品として珍重され、室町時代になると、武家の式服として使用されました。また、この地域の慣例で湿潤な気候は、良質なカラムシを産出し、越後産の青苧は麻織物の原料として関西地方に出荷されました。
近世(越後縮の時代)

古代から近世にかけて、高級な夏用の麻織物として珍重された越後布も、しだいに生産が衰えました。この危機を乗り越えて、のちにこの地方の特産品となったのが越後縮です。江戸時代の初めに、越後布に改良が加えられ、越後縮が誕生しました。
名声を得た越後縮は、武士の式服となることで、さらに需要が高まりました。十日町には縮市が開設され、江戸、京都、大阪をはじめ各地から商人が集まって大変賑わいました。
近世(明石ちぢみの時代)

明治以降、十日町織物は原料が青苧から絹に急速に移行し、工場生産が発展しました。その後、新商品の開発が続けられ、夏物の「明石ちぢみ」や秋冬物の「意匠白生地」が誕生しオールシーズンの織物生産が実現。
特に明石ちぢみは「夏物といえば明石、明石といえば十日町」といわれるほど全国にその名の知られた、十日町の看板商品となりました。
現代(十日町織物の時代)

太平洋戦争が始まる前年の1940年(昭和15年)、「奢侈品等製造販売制限規制(七・七禁令)」が発令されました。金銀糸や漆糸を使った意匠白生地など、主力製品の8割が生産と販売を禁止され、十日町の織物産業は大打撃を受けたのです。
1945年(昭和20年)に戦争が終わり、高度経済成長を迎えると、「マジョリカお召し」「黒絵羽織」などの新商品が開発され、1965年(昭和40年)代には織りと染めの総合産地となりました。

十日町の織物。左から越後縮、明石ちぢみ、マジョリカお召し、黒絵羽織の展示。
織物とか全く興味がないというか、知見がないんだけど、それでもキレイな織物や服を見ると凄いなとは思う。何より、縄文時代や弥生時代から人々は布を作っていたっていうのがびっくりだよね。
雪と信濃川

川と生きる

信濃川は日本一長い川で、甲武信ケ岳に源を発し、長野県内を千曲川として流れ、新潟県に入ると信濃川と名前を変えて日本海に注ぎます。

信濃川は、人や物資を運ぶ道であり、その水は発電、上水道、灌漑用水、工業用水などに利用されてきました。荷舟は年貢米を運び、明治以降になると下り舟で米、木炭、酒など、上り舟で塩、砂糖、醤油、海産物などの生活物資を運ぶようになります。船着き場では、商店が営まれにぎわいました。また、信濃川には渡し場が何カ所もでき、渡し船は両岸をつなぎました。
しかし、日本が近代化した明治以降に橋がかけられ、道路や鉄道などの陸上交通が整備されると、荷舟と渡し舟は役割を終えました。

信濃川は、洪水を繰り返す暴れ川でした。太平洋戦争後、初代十日町市長の中山龍次は、古くから繰り返されてきた水害の年表を作り、人々の窮状を訴え、国を動かして広範囲の堤防を築きました。
また、信濃川水系では、明治30年頃から水力発電が始まりました。川の水は上流で取水され、送水管で山の中を通り、下流の発電所に送られます。現在、発電された電機は上越線や首都圏の鉄道の運行に利用されています。
雪と暮らす

雪国の一年は、雪が積もる雪季と雪のない夏場に分かれます。雪季になると、人々は半年もの間、雪の中で生活をしなければなりません。しかし、人々は雪に耐え忍びながらも、雪を利用し、次の夏場に向けて、衣食住の準備を怠りませんでした。

昔の農家では、雪が降ると家の中が仕事場になりました。男たちは稲の脱穀や米搗きを澄ませると、土間でワラやスゲなどを材料に履物や被り物を作りました。

女たちは家事や育児をしながら、苧績みをしてカラムシの繊維から糸を作り、機織りをしました。機織りは一冬ひとり1反が平均的な生産量でしたが、冬の唯一の現金収入となり、農家の位を支え、今日の織物産地・十日町の基礎となりました。

この地方では、雪下ろしを「雪堀り」といいます。屋根から落とした雪が、玄関などを塞いでしまうため、取り除く必要があるからです。家が立て込んでいる市街地では、道路に雪を落とすことになり、壁のように高く雪が積み上げられていました。

季節市は、季節の終わりに開かれる市で、イセンは旧暦の12月に6回の市がありました。近隣の村の人々が、藁・竹細工を持ち寄って売り、正月の買い出しをして帰りました。正月が新暦になってからは、1月に4回開かれています。
この市は、別名「チンコロ市」といわれています。チンコロ(子犬)は米の粉で作る糝粉細工で、食紅で着色され、犬や猫などの動物の形に作られています。ひびが入るほど縁起がよいとされ、一番人気の商品です。

正月や小正月は、豊作を願う予祝行事が多い時期です。鳥追いやホンヤラドウ、ドウラクジン(サイノカミ)は代表的な行事で、大人も子供も一緒に参加し、明るい春を呼ぶ祭典でした。
3月になり陽射しが強まると、農家では少しでも早く農作業をするため、雪上に土をまいて雪消しに精を出します。ソリに堆肥をのせて田畑に運ぶ肥引きや、山から薪を伐り出す春木山と呼ばれる作業もありました。

雪室は、夏に鮮魚などの冷蔵に利用するため、冬に降った雪を貯蔵しておく施設です。3月下旬頃になると、雪を山形に積み上げ、その表面を藁製の編み物で覆い、その外側には茅と竿で屋根が組まれます。雪室の雪は、主に料理店や鮮魚店などで使用されました。
ユキノコギリを使って切り出された雪は、大八車に乗せて利用者まで運ばれます。雪は食品の冷蔵だけでなく、病人の看護にも利用されました。
千葉に住んでいるから、豪雪地帯の生活は想像もつかないけど、半年近くも雪に閉ざされる生活ってどんなんだろうね。季節市とかはなんか楽しそう。
十日町市博物館のお土産屋

最後にお土産屋。いろいろな博物館に行ってきたけど、十日町市博物館のお土産は欲しい物がいっぱいで迷った。予算があればバンバン買いたかったけど我慢。それでも図録はもちろん、クリアファイルやハンガーボトルも買ってしまった。全部で6千円くらい、、、完璧に予算オーバーだ。でもチンコロも欲しかったな。というわけで、十日町市博物館でした。
