【展示解説会】面白すぎる「謎多き縄文晩期展」(千葉市埋蔵文化財調査センター)
千葉市埋蔵文化財調査センターで開催中の「謎多き縄文晩期」へ行ってきました。
縄文時代の晩期の生活の様子やこれまでの定説を覆す内容など、なかなか面白い展示説明会でした。
Contents
縄文時代晩期の衰退論への疑問

縄文時代晩期の定説といえば、房総半島では、縄文時代晩期前葉までの遺跡は多く発見されているが、縄文時代晩期後葉から弥生時代前期の遺跡数が極端に少なく、また縄文時代後晩期に盛んに作られていた土偶・石棒・耳飾といった祭祀具などが縄文時代晩期中葉を境に一斉に消滅していくことから「縄文時代の衰退期」と表現されることが多く、その背景には気候の寒冷化などが考えられてきました。
実際、旧石器時代から多くの人々が暮らしてきた房総半島の歴史全体から見ても、縄文時代晩期後葉から弥生時代前期は遺跡の数が極端に少なく、房総半島はほぼ無人のようにも見える状況です。
しかし、近年の研究成果から「どうやら単純に寒冷化して衰退したわけでもないこと」が明らかになりつつあります。というのも、気候の寒冷化と遺跡数減少の相関を疑問視する意見が出てきているからです。

例えば、当時の人々が摂取した食料の傾向を、出土した人骨から分析する炭素・窒素同位体比分析の結果をみても、前時代に比べて「大きな変化がみられないこと」が分かってきています。
また、貝塚などから出土するこの時期の遺跡出土の魚介類を分析すると、亜熱帯種のハイガイが縄文時代晩期の貝塚からも出土したり、逆に寒冷種のニシン・サケ類が見つからないことから、寒冷化による海水温の低下、少なくとも入手可能な資源が激変するような環境の変化はなかったのではないかと考えられます。
加えて、寒冷化が遺跡数の減少を引き起こすのであれば、より高緯度に位置する東北地方で遺跡数が増加する時期もあったりと説明できない部分が多くあります。
このことから「気候の寒冷化による人口減少や縄文文化の衰退論」には、疑問の余地が残ります。
謎1:祭祀行為の発達

縄文時代後晩期にかけては、土偶・石棒・異形土器といった祭祀にかかわる道具が非常に発達し、造形的にも優れたものが多く作られます。このように祭祀に関わる道具が増えることから、縄文時代後晩期の社会は停滞・衰退したために「呪術に依存する社会=祭祀具の発達」という図式で語られることもありました。

しかし、この説は具体的な証拠が伴うものではありませんでした。これまでに蓄積された多くの発掘調査成果をみると、縄文時代後晩期には長期継続する規模の大きなムラで土偶をはじめとする祭祀具が多く出土する傾向があることが分かっています。

このことから、停滞・衰退というよりは「長期継続する大きなムラで祭祀具が盛んに使われていたこと」になり、そいうったムラで祭祀が多く行われる意味を考えた方が良いのかもしれません。
謎2:食糧生産の変化

縄文時代晩期末葉以降も現在の印旛沼周辺では貝塚がいくつか形成されています。汽水域に生息するヤマトシジミが主体の貝塚ですが、縄文時代後期までの貝塚とは異なる点があります。
それは魚骨がとても少ないかわりに獣骨がとても多く、時には骨塚のような状況を呈する点です。

獣骨はシカ→イノシシの順に多く、哺乳類を対象とした狩猟を盛んに行っていたようです。この時期の遺跡から見る石器類をみても、狩猟に用いる石鏃の出土が目立ち、農耕に関わる石器はほとんど見られません。

また、石鏃だけでなく骨・角・牙を加工して製作された骨鏃なども多く見られます。

どの遺跡の動物依存体を分析しても大形の魚類の出土はほぼ認められないことから、これらの狩猟具の狩猟対象はシカ・イノシシを中心とした哺乳類であり、縄文時代晩期末葉から弥生時代前期はかなり狩猟に傾斜した時期だったようです。
謎3:縄文人はどこへ?

わずかな集落と住居

縄文時代晩期も終わりに近くなると、房総半島では遺跡数が極端に減少していきます。
実際、旧石器時代から多くの人々が暮らしてきた房総半島ですが、この時期だけ遺跡の発見数が少なく、ある程度遺跡が集中するエリアが存在するだけになっていきます。加えて、この時期の遺跡が見つかっても土器の破片が少しだけ見つかることがほとんどです。
一方で、遺跡が集中するエリアがあることも特徴で、栗山川周辺、長沼低地周辺、都川~鹿島川間に集中します。
栗山川周辺、長沼低地周辺では貝塚が形成され、貝類を採取可能な場所や、狩猟好適地への往来が容易な場所に居住していたと見られます。また、都川~鹿島川間も狩猟好適地に近く、なおかつ東京湾と常総の内海を繋ぐ位置であり、水上交通上重要であったため、集中したものと考えられます。
土器を少しだけ残した人は何をしたのか

前述した、遺跡が集中する場所以外にも房総半島内にはこの時期の遺跡が点々と分布していますが、これらの遺跡の中には「シカなどの動物の移動ルートである分水嶺上位置する遺跡」が一定数あります。
狩猟生活をしていた旧石器時代の遺跡もこの分水嶺近くに集中し、縄文時代晩期末葉~弥生時代前期末葉の遺跡とよく重複し、この両時期の遺跡は狩猟好適地に立地することが特徴です。
また、分水嶺から近く、陸路で往来が可能な場所に位置する遺跡も多く、やはり動物の移動ルートを意識した場所に暮らしていたようです。
ただし、これらの遺跡は土器片が僅かに出土するのみの場合が多く、常に居住していたわけではないようです。通常は滞在する場所があり、狩猟をする際の一時的なキャンプ場のような場所だったのではないでしょうか?
専業集団の出現

縄文時代晩期末葉~弥生時代前期にかけて、房総半島では狩猟を生業の中心とした人々がいたようです。
同じ時期、西日本の各地で本格的な水田稲作の導入が始まっており、農耕集落と呼ぶべき集落が出現していました。農耕を生業とする集団がいる一方で、生業の分業・専業化が進み狩猟・漁労に先鋭化していく集団が出現しました。
房総半島でみられる狩猟に特化した集団もそういう集団だったのではないでしょうか?

それを示す可能性がある遺物として、鹿角製儀器と呼ばれるものがあります。縄文時代晩期末葉~弥生時代中期前葉にかけてみられる鹿角を加工して作った祭祀の道具ですが、出土状況から狩猟・漁労活動を重要視する集団の存在を示唆するものと考えらています。
企画展で展示されていた遺物

今回の展示会「謎多き縄文晩期」に展示されていた逸品たち。
ここまで小難しい解説だったけど、解説との繋がりで載せられなかった逸品たちを載せておく。
【人面付土版】


【動物形土製品】

【土偶・土製耳飾・異形土器】

【浅鉢】

【香炉形人面付土器】

謎多き縄文晩期展の総括

今回の記事では「謎多き縄文晩期」について、いろいろ書いてきたけど、この記事で書いてきた内容以外にも「縄文時代の広域ネットワークとその崩壊」「石棒・土偶・耳飾りの消滅」「謎の石材利用」「製塩土器」「再葬墓遺跡との重複」「弥生人に受け継がれたもの」「本格的な稲作の導入」など、面白いテーマの解説が多かった。
特に、これまでは「気候の寒冷化によって縄文文化が衰退した」という説が一般的だったけど、そうではなくて「生活様式の変化による弥生文化への移行」という話の流れは面白かったかな。
記事に書ききれていない部分や詳細については、冒頭の動画で先生が全部解説しているので、気になる人は、ぜひ動画を見てみてくだされ。
