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【講演会&報告会】縄文人と丸木舟(千葉市生涯学習センター)

 2025/11/23 講演会&報告会 この記事は約 8 分で読めます。 10 Views

 

 

千葉市生涯学習センターで行われた「縄文人と丸木舟」という講演会に行ってきました。

内容は「加曾利貝塚に丸木舟はあったのか」とか「動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性」とか、そういった感じのやつ。ものすごく体調が悪くて死にそうだったけど、楽しみにしていた講演会だったので参加。

 

 

房総半島の丸木舟と都川流域の舟利用

 

 

現在、全国で200を超える丸木舟が出土していて、そのうちの半数近くが千葉県での出土らしい。丸木舟ってもっとたくさん出ていると思っていたんだけど、意外と少ないのね。でも、そのほとんどが千葉というのいうのが凄い。

丸木舟の出土数が少ない理由は、基本的に日本は酸性の土壌が多く、その影響によって、木材などの有機物で作られた遺物は、貝層などのアルカリ性の土壌や湿地など水分が多く低温に保たれた場所からしか発見されないからなのだそう。

 

丸木舟とは?

 

 

で、そんな丸木舟だが、幹の直径が50cmを超えるような大木を伐採し、くりぬいてつくられる、現在でいうところのカヌーみたいな舟、50cmを超える大木を使う理由は人が中に入って漕ぐことを考えると、それくらいないと不可能だかららしい。

丸木舟は年代を測定するのが難しく、というのも、ほとんどが破損した状態で発見されており、使用目的に合わせた特性が細部の形態に反映されているとは推測されるものの、縄文土器のように地域的な特徴を捉えることが現状では難しいらしい。

確かに、先端が尖ったものや、丸みを帯びたものや、少ないけど面取りされたものなどが見つかっているみたいだけど、それが時代や地域性によるものなのか、流行りや使用用途によるものなのかを判別するのは難しいと思った。

そんな中、千葉での丸木舟の発見例が多い理由として、沖積低地による地質的な特性によるところが大きいらしい。難しいことはよく分からないけど、泥炭層が多いらしく、その結果、丸木舟が比較的残りやすい環境だったというとらしい。

 

市川市雷下遺跡

 

 

雷下遺跡は、沖積低地の表土下標高+2m-2.5mで、貝層が発見された遺跡で、縄文海進によって大地が削られ、その土砂が流入してできた干潟に貝塚が形成された遺跡で、縄文時代早期後葉から早期末葉の蓄積層から、およそ7mの丸木舟が出土した。

残念ながら破損しており、確認できる部分は舟底部のみだが、土器や石器はもちろんのこと、骨格歯牙貝製品やスズキなどの魚骨や、焚火の後や埋葬人骨が発見されていることから、当時の人々が浜で生活をし、漁労に舟が使われていたと考えられる。

因みに、海を挟んだ反対側には、中里貝塚があり、この中里貝塚は集落からはなれた浜辺において、その周辺に暮らした人々が協業して貝加工を行った結果残された巨大な貝塚であり、縄文時代にあって自給自足的な範囲を越えて内陸の他の集落へ供給することを目的とした貝の加工処理があったことを各種の遺構・遺物によって具体的に伝える重要な遺跡になっているらしい。

 

南房総市加茂遺跡

 

 

房総半島の先端、太平洋にそそぐ丸山川の支流に面する遺跡で、縄文海退に転じたのち、淡水化によって蓄積した泥炭層から丸木舟が出土している。海退によって海岸線が下がったものの、それほど遠くへは退いていないと考えれており、河川だけでなく海での漁労にも使われていたと思われるとのこと、因みにイノシシやイルカなどの動物遺体が発見されている。

 

千葉市落合遺跡

 

 

花見川の支谷に所在する低地遺跡で、海岸からは1.5kmも離れたところに位置している。戦中から戦後にかけて泥炭が採掘され、その際に丸木舟が発見された。その後の調査でも丸木舟が発見されて、計6隻の丸木舟が出土している。この谷の奥まったところには犢橋貝塚があるので、花見川河口の海域と河川流域の漁労活動に使われていたと推測される。

 

匝瑳市多古田低地遺跡

 

 

破損を含めれば16隻以上もの丸木舟が発見されている。縄文時代後期の加曾利B式~安行2式までの土器が発見された泥炭層から出土しているため、時代的には縄文時代後期~晩期の丸木舟の可能性が高い。動物遺体もシカ・イノシイ・イルカ・スズキなども出ている。

 

横芝光町高谷川低地遺跡

 

 

栗山川の支流である高屋川の両岸標高+4mの低地遺跡。水田下から発掘調査によって15隻もの丸木舟が出土した。そのうち1地点からは、状態の良い丸木舟が9隻折り重なった状態で発見された。面白いのが多数の船が一カ所に折り重なっていた点で、そのことから舟の墓場のような場所だったとか、逆に船着き場のような場所だったとか、いろいろ推測されている。丸木舟のほかに板材や柱などの丸太も発見されていることから、舟小屋みたいな施設があったのではないかという説もある。

 

都川流域の舟利用

 

 

というわけで、房総半島全体の代表的な丸木舟を伴う遺跡については以上なんだけど、加曾利貝塚に丸木舟はあったのかという点なのだけど、縄文時代のピークには坂月川の下流部まで海水が侵入するが、縄文海退に転ずると海岸線は遠くなり、東京湾に面する下総台地は2~4kmにわたり海蝕崖となって眼下には遠浅の干潟が形成され、中期以降は格好の漁場になった。

加曾利貝塚は標高30mの高さにあって、都川河口の浜までは直線距離にしておよそ5km、陸路だけでは開眼いたす売ることは難しく、低地に広がる沼沢地を丸木舟を利用して海外線に行っていたと考えられる。当時の水量が加曾利貝塚の近くまで来ていたかどうかは分からないが、少なくとも坂月川と都川の合流地点までは、漕ぎ入れることができたのではないかと推測される。

まぁ、加曾利貝塚の立地というか、あの場所にあれだけ大量の貝塚が作られているという事実を考えれば、陸路でせっせと貝を運ぶより、丸木舟を使って近くまで運んできたと考える方が自然よね。そう考えると加曾利貝塚の丸木舟が見つかるとすれば、貝塚からではなく、坂月川沿い都川と合流するまでの間のどこか?というのが自然な流れになるのだろうか。それが発見されても、加曾利貝塚の人々が使用していたと断定するのは難しいと思うけど。

 

 

動物遺体からみた海洋資源獲得と丸木舟利用の可能性

 

 

同じ下総台地の貝塚でも、出土する貝類に微妙の差があったりするらしい。そういえば、加曾利貝塚内でも北貝塚と東貝塚で貝の大きさが違っていたりしたのを思い出いした。

貝の種類組成に関しては、イボキサゴとハマグリが多いのは全ての貝塚に共通する点だが、矢作・台門・加曾利南ではハマグリの比率がやや低く、アサリの比率がシオフキを上回るのに対し、それより南の多部田・誉田高田・木戸作・大膳野南ではハマグリが圧倒的に多く、シオフキが2位になっているらしい。多部田・誉田高田はどちらかといえば、内陸に位置しているため、貝類の出土状況から見て、木戸作・大膳野南など村田川方面から貝類がもたらされていた可能性があると推測される。

確かにもし仮に加曾利とか都川方面からの流入だったら、貝塚の貝類の分布は矢作・台門・加曾利南と同じになるはずだしね。多部田・誉田高田の人々が自分たちで貝を取りにってたにせよ、木戸作・大膳野南の人々から譲ってもらっていたにせよ、村田川方面の流れを汲んでいることは明らかだよね。

 

 

また、矢作・台門では河口域に棲息するヤマトシジミが多いのも特徴で、これは都川河口に隣接した立地を反映した特長と言える。都川の上流にある加曾利南・多部田・誉田高田からは、ヤマトシジミがほとんど出ていないことから、加曾利南・多部田・誉田高田の地域の人々は都川沿いのヤマトシジミの漁場を無視して、海に行っていたことになる。

多部田・誉田高田が都川ではなく、村田川経由から貝を得ていたことが推測されるので、その点からも納得はできるが、加曾利南の人々が都川沿いのヤマトシジミの漁場を無視していたとなると、都川筋経由ではなく、大地を横切って直接海に行っていた可能性がある。そうなると、丸木舟の係留場は、干潟に近接した場所にあったと考えられる。

そう考えると、加曾利の人々が丸木舟を係留していた場所が川沿いではなく、干潟の側ということになるよね。どのみち今のところ、「丸木舟はおそらく加曾利の人々に使われていたであろう」というだけで、実際にその証拠は出てきていないから、何とも言えないわな。

あとは、加曾利南では、内湾性のクロダイの骨が多く、外洋性のマダイの骨の出土が少ないことから、漁場も沿岸浅瀬。一方、矢作ではクロダイとマダイの両方が出てきていることから、加曾利に比べて沖まで出ていたことが分かるらしい。まぁ、でもクロダイにせよ、マダイにせよ、タイを取るためには干潟では難しいから、どちらにしても丸木舟を利用していたことが動物の骨の出土状況から分かるのだそうだ。

 

この後の講演で「北日本の民族調査からみた丸木舟の製作工程と使用法」や「大宮台地周縁の丸木舟」などをやっていたが、体調が限界すぎてじっくり聞くのは無理でした。家帰ってとりあえず資料だけ読んでおいた。

 

 

 

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